2時間目 「社会なるもの」以降の政治
「現実」をめぐる討論と活動と力の波の中で
昨年から、グレタ・トゥーンベリさんと彼女の活動、そして彼女から波及した世界中の気候変動ストライキが、日々のニュースで取り上げられている。そうして2020年がはじまった。
私は以前Twitterで誰かのこのようなツイートを目撃した。グレタさんをはじめとする若い世代と、現行の政界や財界の権力者そして一般に彼女たち以上の世代とのあいだで、「現実」は本当に異なっているんだろう、と。
グレタさん、そして世界中のデモに参加する人びとは、ある仕方で「現実」を理解し(例えば、気候変動は取り返しのつかない状態に近づいている)、その上でまだ実現していないがそうあるべき可能な世界を目指して、Facebookで呼びかけあって庁舎の前や広場や通りを占拠したり、ヨットで移動したり、肉食をやめたりしている。彼女たちは、いま・ここの眼前にある人間の営み、それだけでなく虫や森の動物や空気や生活を支えるテクノロジーとの関係性を見つめ、その別のあり方を想像し、そして現に作り変えている。確かに、この時「現実」は、誰にとっても同じく与えられた普遍の条件ではない。いろんな存在が関わり合い、想像し、活動する中で立ち現れる、多様さがあるプロセスだ。いま政治は、そうしたプロセスのなかで展開している。
2020年からの新たな10年間は、こういう動的で関係的で人間を超えた「現実」を直視し、それを受けて行動することが当たり前になっていくんではないだろうか。その時代を生きるために、ひとりゼミはディミトリス・パパドプロス(2018)の『実験的実践——テクノサイエンス、オルターオントロジー、社会的なるものを超えた運動』(Experimental Practice: Technoscience, Alterontologies, and More-than-social Movements)から始めようと思う。
ポストヒューマン・カルチャーと過去10年の運動の無力さ
早速、ゆっくり中身を見ていこう。パパドプロスはこのように切り出している。
この本はふたつの起源をもっている。ひとつめは、他の種、機械、そして物質世界との関係において、人間的なるものを脱中心化することだ(1頁)。
この脱中心化をパパドプロスは「ポストヒューマン・カルチャー」と名付けていて、それはテクノサイエンスが形作ってきたと言う。
ではふたつめは何か。パパドプロスはこのように述べている。
ふたつめは、ある現象(a phenomenon)というよりある情動(an affect)である。ある考え(a thought)というよりある義務(a commitment)。ある関心(an interest)というよりはある義理(an obligation)。社会変革を徐々に浸透させるために2006年以降北大西洋地域やそれを超えた各国で発生した風変わりな社会動員の無力さを把握することによる、ある切迫した感情(a feeling of urgency)である(1頁)。
ここだけではわからないので、続きを見てみよう。ここには註3と与えられているので見てみると、パリ2006年、アテネ2008年、チュニジア2010年、カイロ2011年、マドリー2011年、アテネ2011年、グローバル占拠運動2011年、15−M運動2011年、ロンドン2011年、イスタンブル2012年、と書かれている。ひとりの焼身自殺からSNSを通じて爆発的に広まったジャスミン革命は、何が風変わりで、そしてどんな意味で無力だったのだろう。
これらの運動はいずれも、「社会経済的そして生態学的な正義の物質化」に向かわせる力を発揮できずに終わった。そしてそれらの運動が望んだ方向に広い影響を与えられずに終わった。これが無力さだ。でも、まだよくわからない。あるいはわたしが、これらの運動の帰結について不勉強なのかもしれない。
…とここまでくるにも、ジリジリとかなり時間がかかっている。このくらいにして、休憩します。このペースでとりあえずはよし。