7時間目 ベターな自然
思い描いていた姿との乖離に恥じ入ってしまうのでもなく、かといって環境のせいにして「だってだって」と現状に開き直ってしまうのでもなく。ゆっくりでもやめないことが、時に大事だ。1月25日を最後にしたきり、ずいぶん更新していなかった。できるだけ取り組むしかない。
この記事を書こうとしては実現できずに日がすぎていた。ハードルがあがっていたのかもしれない。そんなに読者もいないし誰も空白には気づかないよ。別に誰もこの一回に点数をつけたりしないよ、とあえて頭で言い聞かせることで再開できた。緊張しなくていい。イギリスの科学技術社会論の論者でANTの提唱者のひとりジョン・ロウのWhat's Wrong with a One-World World? (Distinktion (16)1: 126-139, 2015)についてメモする。
タイトルにある、one-world world の何が問題か?——反語的に「オレの何が問題なんだよ!?」と口論で開き直った男の口の聞き方ではないだろう——とは自然と文化の二項対立がどうして問題なのかと言い換えられる。one-world worldは、わたしはとりあえず〈単一世界の世界〉と訳しておく(もっとこなれた訳が良いと思う)。いわゆる「存在論的転回」以降、わたしたち——人類学の言語で話す界隈——にとってこの文言は、ひとつの紋切り型にもなっている。だが、なぜ・どのように、それは脱却されるべき前提なのか。ロウは、彼なりにそれを言語化している。
オーストラリア政府は組織的なやり方でアボリジニの人々を土地から排除した。その理由は人々がそこに定着して継続的に土地に介入し、生産する場所へと変容させなかったからだ。だから人々は土地を所有していない。そこは近代国家にとって、未着手のterra nulliusだ。ロウは、このヘレン・ヴェランの論文(1998)を入り口に、〈単一世界の世界〉の問題を語り始める。
近代国家がこのような働きかけをするとき、世界が外在的である(out there)ことが前提にあると、ロウは言う。外在的な世界が与えられ、人間はそこに後から内在し始める。しかし、外在的で単一の世界の内部で、異なる集団の間に別々の見方があると理解すると、わたしたちは問題を見誤る。アボリジニの人々にとって、「世界」は外在ではなく、植物、動物、儀礼的な場所、先祖たちが、活力を持って互いに交流して初めて立ち現れる。その世界はパフォーマティヴに存在している。
問題は、 オーストラリアの大地で働いている特定の力にまかせて、わたしたちがアボリジニの世界をやすやすと「信仰」に還元することだ。わたしたちの一見素朴で自然な世界への接し方は、すでに力が特定の仕方で働いている上で成り立っている。権力が、外在的な世界がそのようにしてあるかのように、工夫している。近代国家とアボリジニのコミュニケーションは、力がすみずみに行き渡った相互作用(power-saturated interaction)だ。
ロウは差異に深く根を張っている力の不均衡に鋭く目をやっている——アボリジニの世界から話を始めたロウはイギリス人だ。〈単一世界の世界〉の問題は、(アボリジニの世界と)違うこと自体にではなく、差異をまるでブルドーザーのように粉々に粉砕し、その後、“目の覚めている”人間からは弱々しく未熟に見える、しかし当人たちだけが必死な「信仰」としてのみ、他者にスペースを設けてやる暴力性にある。しかしアボリジニは、外在する”本当”の世界はそうではないと理性ではわかっていながらも、社会文化的に慣れ親しんだ身振りや口ぶりを優先して、それを信じているのだろうか。そうではない。
この問題を、しかしロウはアボリジニの世界に飛び込んでさらに追求することはしなかった。彼のとった戦略は北側先進国——この表現を最適とは思えないと言いつつ——に戻って考え直すことだった。ロウは〈単一世界の世界〉の仕掛けである科学の営みに関する4つの事例を参照する。それは例えば、『リヴァイアサンと空気ポンプ』や『多としての身体』だ。その狙いには何か。問題に向き合いたくない集団は「オーストラリアのような場所だから、世界が違うなどと言っていられる余裕があるのだ」と、エキゾティックさのせいにするかもしれない。ロウはそういう集団を標的に、科学の世界においてさえ、〈単一世界の世界〉は自明ではなく「それ自身が思っているよりかは、強力ではなかった」ことを明らかにしてみせる。
わたしはこの文献を読み直してよかったと思った。彼が自身の立場はSTSとポストコロニアル研究と人類学の出会いのなかでできていると強調していることを、確認できたからだ。
ロウはこの論文で、単に近代人の前提である〈単一世界の世界〉の砦を崩しただけではないと思う。わたしはロウが現実(なるもの)と虚構(とされてきたもの)の関係性を再考し、イマジネーションに希望を見出そうとしていると理解した。彼が「われわれは差異を内包した北側の内側で諸仮想を創造することができる」と言うとき、「われわれ」には異なる様々な範疇を入れてみることができるのではないだろうか。北側の人類学者、征服者の国民、成人男性、などなどと。「われわれ」は、”そうでしかない”外在的な〈単一世界の世界〉が「想像していたよりも強力ではなかった」、この隙を逃すわけにはいかないのではないか。彼は結論部分で「もし」と頻繁に繰り返す。異なる仕方での世界同士の出会い方を想像し、努力によって作っていくことへの希望がある。
しかし、ロウはこの論文だけでは、やはり楽観的にすぎると言わざる得ない。異なる世界のあり方を奪われた人々の前で、今はオレは変わったからと宣言して済む話だろうか。わたしたちは、悲観的な言い方をあえてすれば、永遠に〈単一世界の世界〉の内側で生きていくことへの欲望から、逃れられないのだろう。偏った力は、あまりに強い。思ったよりも強力ではないにせよ、しかし自然な態度ではあっというまに引きずり込まれてしまう。歴史は消すことができない。「われわれ」は、努力してやっと、「まだまだ」の所に掴まっていられるのかもしれない。
ロウは、「それぞれは特殊である each is specific」と言っている。わたしは、わざわざこう言っていることを読み飛ばしてしまうところだった——現に、再読であるのに憶えていなかった。人類学者ならば、概説の最初の時間にいきなり言われるような、あるいはその前から言われてくるようなことだ。ロウは人新世における政治の問題として〈単一世界の世界〉の問題を位置づけ直してもいる。彼はこの時代にあって、包摂の精神なるものを徹底的に拒否しようと、あえて念を入れているのではないだろうか。諸世界はひとつも同化しないという固い意思を、確認する時なのだ。
それぞれは絶対に特殊であるが、しかし互いは「多としての諸現実、あるいは、ひとつのフラクティバースの中に、部分的に参加する」可能性がある。パースペクティヴに埋め込まれた〈世界〉には、各人がそれを出し抜く隙もわずかに残されている。
彼が「ベターな自然」を選ぶことと表現しているところはおもしろかった。常に、わたしたちはよりよい選択、マシな合意を、暫定的に作っていくべきなのだ。常にベターを模索する。それによって、「暴力を最小化し、諸遭遇の可能性を最大化する」ことができるのだ。