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日本古来の「肚」とヘブライ思想的「ラハミーム(=腸が痛むほどの憐れみ)」の響き合い
本記事は、主として日本人クリスチャンの方々に向けての応援メッセージとなっております。またクリスチャンでない方にとっても、日本の「腰肚文化」と中近東の聖書思想がどのような通じ合い方をしているのか、それなりに興味深いテーマかもしれません。もしよかったら、目を通してみてください。
日本古来の「肚」とヘブライ思想的「ラハミーム(=腸が痛むほどの憐れみ)」は美しく響き合っている(かも)
この二つは美しく響き合っている(かも)と、元気よく書き出しましたが、これはあくまで私の冒険的仮説にすぎないことをあらかじめ断っておきます。
以下、どうして両者が互いに共振し合っていると私が考えているのか、その理由をお話したいと思います。
「深く憐れまれた」のギリシア語
マタイの福音書9章36節で、イエスが羊飼いのいない羊のような群衆の様子を「深く憐れまれた」とあります。
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
Ἰδὼν δὲ τοὺς ὄχλους ἐσπλαγχνίσθη περὶ αὐτῶν ὅτι ἦσαν ἐκλελυμένοι καὶ ἐρριμμένοι ὡς πρόβατα μὴ ἔχοντα ποιμένα.
ここで「深く憐れまれた」「かわいそうに思われた」と訳されている動詞はἐσπλαγχνίσθη(アオリスト直/受)であり、辞書形は スプランクニゾマイ (σπλαγχνίζομαι) です。
離散のユダヤ人が作り出したヘブライ思想的動詞
織田昭先生の『新約聖書ギリシア語小辞典』の スプランクニゾマイ(σπλαγχνίζομαι) の項には次のような説明がしてあります。
σπλαγχνίζομαι(<σπλάχγχνον, 内臓)
思いやりの心でいっぱいになる。深い同情を寄せる。かわいそうに思う。〔属格と〕~を;離散のユダヤ人が作り出したヘブライ思想的動詞。σπλάγχνα(内臓=心情)まで動かされる。
ヘブライ思想では内臓は「人間の深い感情の座」
この項の下には、この動詞の名詞形スプランクノン(σπλάχγχνον) の説明が次のようになされています。
σπλάχγχνον, -ου, τό
①内臓(もともと心臓、肝臓、腎臓、肺等を指した);〔複〕はらわた、内臓。使徒1:18。
②〔複〕同上、憐れみ、愛情、ハート;
ヘブライ思想では内臓は人間の深い感情の座と考えられ、複数形σπλάγχναはLXX (七十人訳聖書)でヘブライ語רַחֲמִים (ラハミーム rachamim, 憐れみ)の訳語に使われた;
σπλάγχνα οἰκτιρμοῦ, 憐れみの心、深い同情の心、コロ3:12
尚、「ラーハム רַחַם 」という語は、ヘブライ語の「子宮」(רֶחֶם、rechem) に関連し、養育、保護、生命を与える愛などを示唆しているそうです。(参照)
また名詞「ラハミーム」(רַחֲמִים) は、腸が痛むほどにかわいそうに思う、愛しむ、あわれみを意味することばです。(参照)
使徒1章18節の「はらわた」
ちなみに、使徒1章18節ではユダが不正を働いた報酬で買った土地にまっさかさまに落ち、「はらわた」がみな出てしまったとありますが、その「はらわた」がさきほどのギリシア語 スプランクナ(σπλάγχνα) 〔複〕です。
使徒1章18節 πάντα τὰ σπλάγχνα αὐτοῦ
はらわたがみな出てしまいました。(新共同訳)
はらわたが全部飛び出してしまった。(新改訳)
臓腑みな流れ出でたり。(文語訳)
「心や命の宿るところ」としての日本語の「肚」や「腑」
1「肝」「はらわた」は内臓をさす言葉だが、転じて精神、心をいうようになった。
2「腑」は、はらわたと同意で、心や命の宿ると考えられるところ。
3「はらわた」は、「腸」とも書く。
日本語でも、「はらわたがちぎれる」(=悲しみやいきどおりなどに堪えられないさま)、「はらわたが煮えくりかえる」等の表現があり、いずれも心や感情を表す表現になっています。
先ほどご紹介しましたように、ヘブライ思想では内臓は人間の深い感情の座と考えられています。これは日本古来の「肚」の意味や用法とかなり重なっていないでしょうか。
日本人キリスト者への励ましメッセージ
ここから私たち日本人キリスト者にとって励ましとなるいくつかのメッセージが導き出されるように思います。
① 古代中近東の聖書思想と、私たちの日本文化には人間の深い感情の座を「ハラ」と捉えている点でなにかしら相通じるものがあるのかもしれません。
② 日本人キリスト者が、自分たちの内に脈々と流れている、この古来の「ハラ」感覚を取り戻していくことで、聖書の世界はより一層親しく、より深いところで私たちの心に開かれてくるのかもしれません。そして何より「腸が痛むほどの憐れみ」の心をもって私たちを愛してくださっている主イエス様と、もっともっと深く交わることができるようになるかもしれません。――そう、「肚を割って」話せる最愛の友として、天の花婿として。