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プロテスタント信者 = 個人主義者??



「堪忍袋の緒が切れかけています。」


前に告解の秘跡に行った時、私は聴罪神父様の前で「自分はもう堪忍袋の緒が切れかけています。立腹しています」と告白しました。

何に腹を立てていたのかというと、自分の周りにいるギリシア正教会の人々が(ネット上でも実生活でも)けっこう頻繁に口にする「あれってプロテスタント的」という非難表現に関してでした。

プロテスタンティズムの特徴をある程度において的確に捉えた上での批判や批評なら問題はないのです。そうではなく、なんでもかんでも自分の気に喰わない現象に遭遇するや、それを「プロテスタント的」だと考えなしに揶揄る、その乱暴な一般化にだんだん腹が立ってきていたのです。

プロテスタント信者 = 個人主義者 = 不遜?


例えば、ある正教の修道士が全くの善意からですが、「Mさんは今もって〈プロテスタント的メンタリティー〉を持っている。正教では人はelder(霊的師父)に謙遜であることが求められている」という旨のことをおっしゃいました。

私はこの方が「プロテスタント教徒は個人主義的で、従って謙遜であるわけがない」と初めから前提しておられることを残念に思いました。

プロテスタンティズムという信仰体系の中に個人主義的要素はあるでしょうか。それはやはりあると思います。(この点はプロテスタント有識者の方々の大半が認めておられると思います。)

それでは、プロテスタンティズム=個人主義でしょうか。プロテスタント信者 イコール 個人主義者なのでしょうか。

アーミッシュ・メノナイトの宣教師たちとのコミュニティーな日々


私は十年前まで、アーミッシュ・メノナイト北米宣教団で奉仕していました。共に奉仕していた宣教師仲間はアイルランドや米国、カナダから来ていましたが、彼らのほとんどが母国でも宣教地でもコミュニティーライフを送っていました。

朝起きて窓を開けたら、向かいの縁側で大量の服を手洗いし、外に干していた7人子持ちのターニャ姉が、「Good morning, dear!」とはちきれんばかりの笑顔であいさつしてくれたことなども脳裏に焼き付いています。


レスボス島難民キャンプで共に奉仕した保守メノナイトの宣教師仲間たちと。中央が著者。



彼女たちと共に笑い、祈り、奉仕した日々は忘れられない。


私は、プロテスタンティズム=個人主義的という単純方式で頭ががっちり固定されている正教およびカトリック教会の一部の方々に嘆願したい。下のVTRを見たまえ!これが目に入らぬかと。(笑)


プロテスタント信者 = ミニ教皇?


またプロテスタント諸教会には告解の秘跡というシステムがないので、プロテスタント信者は自分のことを「小教皇」のように思い、懺悔せず、霊的師父に服従しない。彼らには謙遜さがない、と決めてかかるのもどうかやめていただきたいと本当に思います。

教会論的にどうであれ、私が個人的に親しくしてきたプロテスタント諸教会の姉妹たちはほぼ例外なく皆、自分の教会の霊的指導者に非常に恭順でした。実際、上に立つ人に恭順であるという点で私は彼女たちの模範に到底及びません。

福音主義から東方典礼カトリックを経て東方正教に改宗した私の道のりは教義研究ゆえの結果であり、プロテスタント諸教会やカトリック教会内で人間関係等に問題があったからではありませんでした。

幸いなことに私は各コミュニオンで良き人々に出会い、親交を深めてきました。ですから私にとってプロテスタントというのは抽象的遠い存在ではなく、ジェシカであり、カロリーヌであり、レベッカであり、デボラであり、ターニャであり、そういったかけがえのない朋友たちが息づいているコミュニオンの総称です。そこには教義的にも教会文化的にも驚くほどの多様性があります。

奄美大島に数年間滞在し、そこに息づく島民たちとすっかり仲良くなり、島唄を一緒に歌い、心からの交流を持った経験のある人はその後、島民に対する不正確なカリカチュアや偏見に満ちた表現をどこかで聞くたびに、

「ちょっと待って。それって違うよ。そういう人たちもいるかもしれないけど、みんながみんなそういう訳じゃない。島民=○○だっていう決めつけはやめてほしい」と

自分の愛してやまない島の友人たちをなんとか不条理なレッテル貼りや偏見から守ってあげたいと奮起するのではないかと思います。

保守プロテスタントの一部による(事実に基づかない)カトリック偏見


そういうことをあるプロテスタントの友人に分かち合ったところ、「そうですねぇ、まあ、その点でいえば、保守プロテスタントの一部によるカトリック偏見も似たような感じなのかもしれません。」と率直に感想を語ってくれました。

相手の信じていることを正確に理解していないまま(or 正確に理解していると思い込んだまま)、最初から偏見眼で決めつけてしまっているという問題は、程度の差こそあれ、どのキリスト教共同体にも存在しているのかもしれません。

他者へのレッテル貼りは、自害的でもある


さらに、他者に対する不正確なレッテル貼りは相手のみでなく、自分自身に対しても害を及ぼすということを私は痛感しています。

前に正教会の仲の良い友人が「○○の点で、あなたはもっとイニシアティブを取って積極的にアクションを起こした方がいいと思うよ」とはっぱをかけてくれました。

その言葉をもらってどんなに励まされたことでしょう!そしてその時はっと気づかされたのが、何かに対しイニシアティブを取るとそれは「プロテスタント的」でそれは悪いことなんだ、克服しなければいけないことなんだとびくびく怯えていたということでした。

「プロテスタント的」という否定的響きの籠った揶揄表現を長期に渡り聞き続けてきた結果、私は無意識のうちに主体的であることに対し自信を失い、極度に消極的になってしまっていたのです。

トップダウンでの提案や承認がない限り、自分の判断ができない。判断しようとすると「これってプロテスタント的なのかな?」とこわくなってしまう。

正教の友人との対話を通し、そのアンバランスが明るみに出され、私はこの揶揄表現の呪縛から解放される必要性を強く感じました。

それはプロテスタンティズムの内包する諸問題に対し無感覚になるという意味ではなく、常に新鮮な関心を持ち、プロテスタンティズムというあり方を多方面から見直していきたいという積極的学びへの意欲を意味しています。

解釈の不一致は、互いの友情を損なうものではない


教義的な不一致や意見・解釈の相違は、私たちキリスト者間の友情や互いに対する優しい心情・思いやりを損うものではなく、損うものであってはならないと思います。

聖バシレイオスはアレイオス派の中でも急進的な非相似派(アノモイオス派)のエウノミオスとの激しい論争を繰り広げていましたが、人と人との関係でいえば、両者の間には始終、互いに対する敬意の念があったと聞いています。

どのようにしたら何かや誰かを偏見眼なしに理解し、それ以上でもなくそれ以下でもないありのままの姿を捉えることができるのでしょう。

どのようにしたら誇張や歪曲、揶揄なしに相手と自分の立ち位置や見方の違いを認識し、表現することができるのでしょう。愛においても信仰においても知識においてもこれから少しずつ成長してゆけたらと願ってやみません。

補足です💛



さまざまなプロテスタント諸教派、カトリック、東方正教でのコミュニオン人生を歩む中で私は一つの重要な教訓を学びました。

それは、賛同するにせよ反対するにせよ、あなたが相手グループの信じている内容を本当に知りたいなら、自グループが出版している相手グループ論駁本ではなく、相手グループの人たち自身が自グループについて説明している本や記事を読むのが愛と知の王道であり、隣人愛の実践だということです。


例えば、プロテスタントのクリスチャンが、カトリック教会のことについて本当に知りたいのなら、迷うことなく『カトリック教会のカテキズム』あるいは要約版の『カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)』を手に取られることをお勧めします。


『カトリック教会のカテキズム』


これを読むと、(プロテスタント的感覚からすると一見非聖書的に思われる)カトリック教会のさまざまな諸教理は、カトリックの〈内側〉からみると思いの他、聖書的であり、しかもカトリック的にはちゃんと筋が通っているということに気づくと思います。

逆にいえば、だからこそ500年以上経った今でも、西方教会の内部分裂は最終解決をみることなく、現在に至るまで延々と続いているということになると思います。一言でいえば、どちら側にもそれなりに納得できる内側の論理があるということです。

これは人間関係においても適用できると思います。「あの人なんであんなん?」といぶかしく思っても、同情心をもって相手の考え方の〈内側〉からみようとしてみると、たしかに相手には相手の論理があり、それは相手の中では理に適ったものとして理解されているということが分かってきます。

そうすると、

「現在の自分の立ち位置からすると、相手(or 相手グループ)のこれこれの部分には同意できない。でも自分の中に論理と筋と真理に対する真剣さがあるのと同様、相手の中にも同じくらい強靭な論理と筋と真理に対する真剣さがあることを認める。だから私は現時点での自分の確信を保ちつつ、同時に全き敬意をもって相手に接しよう」

という風になり、こうして愛と理解において少しずつ成長していくことができるのではないかと考えています。

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