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生きづらくても根無し草でもいい。――「お寺の国のクリスチャン」の証を読んで


“お寺の国のクリスチャン、根なし草みたいな存在。だけれどそれでいいんだと、神さまは言っている。わたしはここのひとじゃないんだって。”


肩ひじ張らず、この世におもねることもせず、借り物ではない自分のことばでキリスト信仰のことをつづっている瑞々しい文章に出会いました。若月房恵さんの「お寺の国のクリスチャン」というエッセーです。

クリスチャンの家庭に生まれた著者が「お寺の国」日本のしきたりや宗教的慣習に対してキリスト者としてどのように捉え、どのように生きていくのかというテーマをご自身やご家族の実体験をふまえ、書き綴っておられます。

少数派の生きづらさ、という点ではいま話題のひとたちの気持ちもわかる。でも、聖書は、この生きづらさは当然のものだ、と言っている。この世に認めてもらおうとするな、と言っている。この世は、仮の宿に過ぎないのだから。「この仮の宿で、わたしはあなたの掟を歌います。」・・・いつかどこかで、選ばなくてはいけなくなるのだ。キリストの方に進めば、キリストに。この世の方に進めば、この世に。

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聖書自身が、私たちクリスチャンの生きづらさは当然のものだといっているのだからと、著者はそれに対して泣き言をいうのでもなく嘆くのでもなく、優しくただしずかに諦観しておられました。

ふと三浦綾子著『塩狩峠』の主人公、永野信夫の母のことを思い出しました。信夫の母、菊はキリスト信者であったがゆえに、信夫が物心が付かない頃に姑のトセに実家を追い出されてしまい、その後、トセが亡くなるまで別居を余儀なくされたのでした。

自分の信じるキリストを選べば、幼い息子と離れ離れになってしまうという究極の選択を迫られた菊にとって、たしかにこの世は生きづらいものだったに違いありません。そして著者が証しておられるように、選択の種類や深刻さは異なれど、私たちキリスト者はいつかどこかで選ばなくてはならなくなるのです。

「キリストの方に進めば、キリストに。この世の方に進めば、この世に。」

キリストが私たちに「狭い門から入りなさい」と言われる所以です。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

マタイ7章13-14節(新共同訳)


冒頭でも引用しましたが、著者は最後に「お寺の国のクリスチャン、根なし草みたいな存在。だけれどそれでいいんだと、神さまは言っている。わたしはここのひとじゃないんだって」とすがすがしく証を締めくくっています。

ヘブライ人への手紙11章を読みますと、信仰の人であった族長アブラハムは、神の約束の地に「あたかも異国の地にいるかのように留まり」、立派な家ではなく「幕屋」という仮住まいにイサクやヤコブと共に住んだと記してあります(9節)。著者と同じように彼らもまた、自分たちがこの世では異邦人であり、旅人にすぎないことを言い表していたのです(13節参照)。――天の故郷、堅固な土台の上に立てられた都を待ち望みつつ(10、16節参照)。

著者の若月房恵さんに感謝しながら、最後に、紀元200年頃に書かれた「ディオグネトスへの手紙」の一節を紹介してこの記事を終わりにしようと思います。

キリスト者は、ただ神の霊によって生かされる一つの共同体に属しているがゆえに、驚くべき、まったく逆説的な態度を示します。彼らは市民としてのあらゆる義務を果たし、税を負担しています。すべての外国が彼らにとっては祖国であり、またすべての祖国が外国です・・

この世に生きていますが、この世に従って生きてはいません。地上での生を送りますが、天の市民なのです。定められた法律に従っていますが、彼らの生き方はそれらの法をはるかに超えています。

彼らはすべての人を愛しますが、人々は彼らを迫害します。彼らを認めず、非難し、殺します。しかし、それによってキリスト者たちは命を得るのです。彼らは貧しいですが、多くの人を富ませます。すべてを欠いていますが、すべてにおいて有り余るほど豊かです。人々は彼らを軽蔑しますが、彼らはその軽蔑の中に自らの名誉を見出します。人々は彼らを侮辱しますが、彼らは人々を祝福します。・・・ひとことで言えば、体に魂が宿るように、キリスト者はこの世に宿る魂なのです。魂が体の各部に行き渡っているように、キリスト者もこの世の町々に浸透しています。

『来てください、沈むことのない光』からの引用

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