生きづらくても根無し草でもいい。――「お寺の国のクリスチャン」の証を読んで
肩ひじ張らず、この世におもねることもせず、借り物ではない自分のことばでキリスト信仰のことをつづっている瑞々しい文章に出会いました。若月房恵さんの「お寺の国のクリスチャン」というエッセーです。
クリスチャンの家庭に生まれた著者が「お寺の国」日本のしきたりや宗教的慣習に対してキリスト者としてどのように捉え、どのように生きていくのかというテーマをご自身やご家族の実体験をふまえ、書き綴っておられます。
聖書自身が、私たちクリスチャンの生きづらさは当然のものだといっているのだからと、著者はそれに対して泣き言をいうのでもなく嘆くのでもなく、優しくただしずかに諦観しておられました。
ふと三浦綾子著『塩狩峠』の主人公、永野信夫の母のことを思い出しました。信夫の母、菊はキリスト信者であったがゆえに、信夫が物心が付かない頃に姑のトセに実家を追い出されてしまい、その後、トセが亡くなるまで別居を余儀なくされたのでした。
自分の信じるキリストを選べば、幼い息子と離れ離れになってしまうという究極の選択を迫られた菊にとって、たしかにこの世は生きづらいものだったに違いありません。そして著者が証しておられるように、選択の種類や深刻さは異なれど、私たちキリスト者はいつかどこかで選ばなくてはならなくなるのです。
キリストが私たちに「狭い門から入りなさい」と言われる所以です。
冒頭でも引用しましたが、著者は最後に「お寺の国のクリスチャン、根なし草みたいな存在。だけれどそれでいいんだと、神さまは言っている。わたしはここのひとじゃないんだって」とすがすがしく証を締めくくっています。
ヘブライ人への手紙11章を読みますと、信仰の人であった族長アブラハムは、神の約束の地に「あたかも異国の地にいるかのように留まり」、立派な家ではなく「幕屋」という仮住まいにイサクやヤコブと共に住んだと記してあります(9節)。著者と同じように彼らもまた、自分たちがこの世では異邦人であり、旅人にすぎないことを言い表していたのです(13節参照)。――天の故郷、堅固な土台の上に立てられた都を待ち望みつつ(10、16節参照)。
著者の若月房恵さんに感謝しながら、最後に、紀元200年頃に書かれた「ディオグネトスへの手紙」の一節を紹介してこの記事を終わりにしようと思います。