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『お寺の国のクリスチャン』小説シリーズの ものすごい魅力に迫る!

小説家の若月房恵さんの作品群の中に「真木和泉」という登場人物が出てきます。江戸時代からつづく由緒ある旧家の後継ぎ息子として生まれた真木は幼い時から周囲の期待を背負って生きてきました。

「ぼくは古い家に生まれ、このすべてを嗣ぐようにと周りから期待されて育ちました。母は良いひとでしたが、仏教と仕来りのこの世界に生きて、この世界に死んでいったようなひとでした。」

お寺の国のクリスチャン ② 

そういった環境に息苦しさを覚えた真木は米国に留学を決意し、かの地でクリスチャンになります。

「その重さから逃れるようにして、ぼくはアメリカに行きました。そしてすぐそこでキリストに出会いました。はじめて生きる道が目の前に開けたような気がし、聖書のすべて、神のすべてを乾いたスポンジのように吸い込んで、聖霊のバプテスマを受けました・・・

大学を卒業したとき、家族には日本に帰ってくるよう言われましたが、ぼくは無理にでも仕事を見つけて、アメリカに留まることを選びました。良い教会があり、牧師や友達に恵まれていて、それを離れたくなかったのもありますが、ぼくはなによりこの古い家に戻ったら、イエスに従う人生を生きられるかどうかが怖かったのです。」

お寺の国のクリスチャン ②

しかしいずれは実家に戻らねばならない。ああ、でもあの環境で自分はどうやって生きていくことができるというのか。真木は煩悶します。

「日本に帰って、本家の跡取りになる勇気はありませんでした。ぼくは自分が仏壇を守れないどころか、一緒に暮らせさえしないだろうこと、無数にいる先祖の年回忌を勤め上げたり、冠婚葬祭で本家の役目を果たしたりするのは、無理だとわかっていました。ぼくのなかに聖霊が住んでいる限り、それはただとにかく無理だったのです。そしていちどイエスの霊を宿したら、それは決してぼくを去ることはないのです。」

同上

いちどイエスの霊を宿したら、それは決してぼくを去ることはない――。だからこそ、(八百万の神々ではない)イエス・キリストの霊を宿している人は、自分がキリスト者として生きているだけで、時として、周囲との間に「不協和音」が生じ、「和」が乱れ、果ては「お前は日本人として恥ずかしくないのか」という非国民のレッテルさえ貼られることもあります。

「それから檀家になっていた寺にも話しをしに行きました。本家が檀家を離れるなどみっともないことは前代未聞である、と住職にはこっぴどく怒られました。真木の家は、江戸時代からずっとその寺の檀家で、先祖の記録も、墓もすべてそこにあるのです。日本人として恥ずかしくないのか、と言われ、また、アメリカに行ったせいであちらに染まってしまったんだ、とも言われました。」

同上

やっとの思いで檀家を離れた真木は、村八分状態となり、一人ぼっちになりました。

「それがすべて終わると、ぼくは鬱のようになって、家のなかに閉じこもりました。近所のひとたちの噂は、家を出なくても伝わってきました。ぼくは社会的に殺されたも同然で、ひとりきりで、助けてくれる教会も牧師も友達もありませんでした。」

同上

拒絶と孤独の暗闇の中にうち置かれていたそんな真木の元にあの御方が訪れます。


ぼく以外誰もいない閉じきった屋敷に、訪ねてきてくれたのは、イエスキリストでした。

同上


ここから日本での真木の人生に変化が起こされていきます。十字架の苦しみと復活の勝利はいつの時代にも表裏一体です。それはイエスにおいてもそうであり、私たちキリスト者の人生においてもしかりです。十字架の苦しみを避けず主につき従う魂は、たとい暗く孤独なトンネルをくぐらなければならなかったとしても、やがて光にまみえるようになります。

「主は、ぼくの心に触れて、鬱を癒し、語りかけてくださいました。イエスが十字架にかかったように、神はぼくを、人々の目の前で十字架に架けたのだと。これはすべて神の計画されていた通りで、ぼくはこのときのために準備されていたのだと・・それから進むべき道は自ずと拓けていきました。〔アメリカに住む親友であり教会の兄弟である〕パウロは日本に宣教に来たいと言ってきて、それならこの屋敷を教会にしようと決めました。」

同上。〔〕内の説明は私によるもの。

日本では何が怖いといって世間体ほどこわいものはないのではないでしょうか。絶対的な真理のない日本の精神土壌において世間体はもはや神(God)のごとき神的権威を帯び、人々はこの「神」に破門されることを極度に恐れています。山本七平が明文化されていないこの絶対的支配を「空気」という概念で説明していたのは有名です。唯一の神という「絶対」の空白は、「世間体という〈空気〉の絶対化」という新たな「絶対」で埋め合わせられるのです。

「近所のひとたちは、まだぼくのことを白眼視して、挨拶もしてくれませんが、主はぼくを、恐れの霊から解放して、人の目を怖がる思いに打ち勝つための力をくださいました。キリストが十字架につけられて、人々に辱しめられた、その苦しみを何万分の一であれ体験させていただいているのです。それはだんだんぼくのなかで誇らしいこととなっていきました。」

同上

真木のこの告白は、使徒パウロの次の告白にも重なるでしょう。

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

ガラテヤ6章14節(口語訳)


ここで口語訳が「断じてあってはならない」と訳しているギリシア語 μὴ γένοιτο (mḕ génoito) は、God forbid, certainly not, by no means, not at all, no way, never, absolutely notという意味合いをもつ強い否定表現です。つまり、私たちキリスト者にとって誇りとするものはだた唯一、「主イエス・キリストの十字架」であってそれ以外の何物でもないと、使徒パウロは喝破しているわけです。

自分がすでに十字架につけられ、この世は自分に対して死に、自分もこの世に対して死んでしまっているという事実がもたらすであろう周囲との気まずさや緊張、孤絶を恐れるあまり、その荒削りの真理、剥き出しの真理にフタをしてしまいたい、神秘的な霧の表現でこの不都合な十字架をふわぁとぼかしてしまいたい――、そういう肉の思いに正面から向かい合い、真木は御霊の力によってそれらの誘惑を退けました。


「でもおれもまた違う世界を生きている。聖書を読めば読むほど、神とともに過ごせば過ごすほど、この世のなかのことはどんどん些細になっていく。だから理解されなくても、イエスの名のためにすべてのひとに憎まれようとも、もう別に構いはしないんだ。」

没になった真木夫妻の会話


同著者の「あたらしいいのち」という小説の中で、地方のお葬式(仏教)の場面が出てきます。皆がお焼香を上げる中、参列者の真木だけが「きれいな百合の花を透明なビニルに包んで一輪抱えて」います。周囲の人の目線は彼に集まっています。

「真木さんは自分の番が来ると、ぼくらの方に深く一礼をし、それから焼香台の脇に、ゆっくりとした仕草で花を捧げた。あとはしきたり通りに一歩下がって、ふたたびぼくらの方に頭を下げると、静かに去っていった。ぼくたちの目は彼に惹きつけられていた。」

あたらしいいのち(小説)


そして主人公の青年(クリスチャンになって間もない)は、その晩、夢をみます。

黒い喪服を着た真木さんが、焼香の列に並んでいる。いつのまにか彼の手の百合の花は血だらけのささくれた十字架にかわって、彼の背中にくくりつけられた。真木さんは十字架を背負って、長い焼香の列を進んでいる。彼が隠れようとしたぼくの方を向いたとき、それはもう真木さんではなかった。日本人の顔をしていたけれど、それがイエスキリストだと、ぼくにはわかった。キリストはぼくに言った。自分の十字架を背負ってわたしについてきなさいと。

同上

いつのまにか真木の手の百合の花が、血だらけのささくれた十字架にかわり、彼の背中にくくりつけられたという描写から「生きているのは、もはや、わたしではなく、キリストが、わたしのうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20参照)というみことばの真理が浮き彫りにされていると感じました。

私が若月房恵さんの小説が好きな理由は、それが現代を生きる日本人キリスト者のリアルを描いているからです。十六世紀の踏絵はキリシタンにとって非常に重い試金石でした。そして形や状況は違えど、現代を生きる私たちにとってもぐっと信仰が試される場面というのは至る所にあります。その時、その場で、一人のキリスト者としての私はいかに行動すべきなのか。そういった切実な諸テーマに若月さんは「小説」という形でタックルしておられるのです。実に尊い働きだと思います。下にリンクを貼りますので、皆さん、ぜひお読みになってみてください。


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