『お寺の国のクリスチャン』小説シリーズの ものすごい魅力に迫る!
小説家の若月房恵さんの作品群の中に「真木和泉」という登場人物が出てきます。江戸時代からつづく由緒ある旧家の後継ぎ息子として生まれた真木は幼い時から周囲の期待を背負って生きてきました。
そういった環境に息苦しさを覚えた真木は米国に留学を決意し、かの地でクリスチャンになります。
しかしいずれは実家に戻らねばならない。ああ、でもあの環境で自分はどうやって生きていくことができるというのか。真木は煩悶します。
いちどイエスの霊を宿したら、それは決してぼくを去ることはない――。だからこそ、(八百万の神々ではない)イエス・キリストの霊を宿している人は、自分がキリスト者として生きているだけで、時として、周囲との間に「不協和音」が生じ、「和」が乱れ、果ては「お前は日本人として恥ずかしくないのか」という非国民のレッテルさえ貼られることもあります。
やっとの思いで檀家を離れた真木は、村八分状態となり、一人ぼっちになりました。
拒絶と孤独の暗闇の中にうち置かれていたそんな真木の元にあの御方が訪れます。
ここから日本での真木の人生に変化が起こされていきます。十字架の苦しみと復活の勝利はいつの時代にも表裏一体です。それはイエスにおいてもそうであり、私たちキリスト者の人生においてもしかりです。十字架の苦しみを避けず主につき従う魂は、たとい暗く孤独なトンネルをくぐらなければならなかったとしても、やがて光にまみえるようになります。
日本では何が怖いといって世間体ほどこわいものはないのではないでしょうか。絶対的な真理のない日本の精神土壌において世間体はもはや神(God)のごとき神的権威を帯び、人々はこの「神」に破門されることを極度に恐れています。山本七平が明文化されていないこの絶対的支配を「空気」という概念で説明していたのは有名です。唯一の神という「絶対」の空白は、「世間体という〈空気〉の絶対化」という新たな「絶対」で埋め合わせられるのです。
真木のこの告白は、使徒パウロの次の告白にも重なるでしょう。
ここで口語訳が「断じてあってはならない」と訳しているギリシア語 μὴ γένοιτο (mḕ génoito) は、God forbid, certainly not, by no means, not at all, no way, never, absolutely notという意味合いをもつ強い否定表現です。つまり、私たちキリスト者にとって誇りとするものはだた唯一、「主イエス・キリストの十字架」であってそれ以外の何物でもないと、使徒パウロは喝破しているわけです。
自分がすでに十字架につけられ、この世は自分に対して死に、自分もこの世に対して死んでしまっているという事実がもたらすであろう周囲との気まずさや緊張、孤絶を恐れるあまり、その荒削りの真理、剥き出しの真理にフタをしてしまいたい、神秘的な霧の表現でこの不都合な十字架をふわぁとぼかしてしまいたい――、そういう肉の思いに正面から向かい合い、真木は御霊の力によってそれらの誘惑を退けました。
同著者の「あたらしいいのち」という小説の中で、地方のお葬式(仏教)の場面が出てきます。皆がお焼香を上げる中、参列者の真木だけが「きれいな百合の花を透明なビニルに包んで一輪抱えて」います。周囲の人の目線は彼に集まっています。
そして主人公の青年(クリスチャンになって間もない)は、その晩、夢をみます。
いつのまにか真木の手の百合の花が、血だらけのささくれた十字架にかわり、彼の背中にくくりつけられたという描写から「生きているのは、もはや、わたしではなく、キリストが、わたしのうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20参照)というみことばの真理が浮き彫りにされていると感じました。
私が若月房恵さんの小説が好きな理由は、それが現代を生きる日本人キリスト者のリアルを描いているからです。十六世紀の踏絵はキリシタンにとって非常に重い試金石でした。そして形や状況は違えど、現代を生きる私たちにとってもぐっと信仰が試される場面というのは至る所にあります。その時、その場で、一人のキリスト者としての私はいかに行動すべきなのか。そういった切実な諸テーマに若月さんは「小説」という形でタックルしておられるのです。実に尊い働きだと思います。下にリンクを貼りますので、皆さん、ぜひお読みになってみてください。