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全時代、全世界の聖徒たちと共に、「主の祈り」の広さ、長さ、高さ、深さを味わおう。




世界中の言語で歌われる「主の祈り」


イエス時代のアラム語で歌う「主の祈り」



Aboon Dbashmayo (Our Father who art in Heaven, 天にいます私たちの父よ)
Nethcadash shmokh (hallowed be thy name, 御名があがめられますように).
teethe malkoothokh (thy Kingdom come, 御国が来ますように),
nehwe sebyonokh (thy will be done, みこころが)
aykano Dbashmayo off bar’o. (on earth as it is in heaven, 天で行なわれるように地でも行なわれますように)

Hab lan lahmo dsoonconan yawmono, (Give us this day our daily bread, 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください).
washbook lan howbain wahtohain (and forgive us our trespasses, 私たちの負いめをお赦しください)
aykano doff hnan shbakn il hayobain (as we forgive those who trespass against us, 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました)

lo thaalan il nessyoono (and lead us not into temptation, 私たちを試みに会わせないで)
elo fasson men beesho (but deliver us from evil, 悪からお救いください)
metool ddeelokhee malkootho, (for thine is the kingdom, 国と)
ou haylo ou Teshbohto, (and the power, and the glory, 力と栄えはあなたのものだからです)
loalam olmen Amin. (for ever and ever. Amen.とこしえに。アーメン。)


聖書ギリシア語で歌う「主の祈り」 【グレゴリオ聖歌】



日本正教会で歌われる「主の祈り」 【日本語】



天に在(いま)す 我らの父や。
願(ねがはく)は爾(なんぢ)の名は聖とせられ。
爾の國は來り。
爾の旨(むね)は天に行はるるが如く、 地にも行はれん。
我が日用(にちよう)の糧を今日(こんにち)我らに與(あた)へ給へ。

我らに債(おひめ)ある者を我ら 免(ゆる)すが如く、
我らの債(おひめ)を免(ゆる)し給へ。
我らを誘(いざなひ)に導かず、
猶(なほ)我らを凶惡(きょうあく)より救ひ給へ。

蓋(けだ)し 國と權能と光榮は、爾(なんじ)父と子と聖神(せいしん)に歸(き)す、 今(いま)も何時(いつ)も世々に。
アミン

「天主経(主の祈り)」(日本正教会)


カトリック教会で歌われる「主の祈り」 【日本語】



アメリカ正教会で歌われる「主の祈り」 【英語】



福音主義教会で歌われる「主の祈り」 【日本語 & 韓国語】


↓ 新讃美歌635 聖歌隊による「主の祈り」合唱


↓ ファン・ヒョンハン兄による「主の祈り」独唱、テノール


↓ ハ・マンテク兄による「主の祈り」独唱、テノール


↓ リビングプレイズ 2000「主の祈り」


レーナ・マリアさんの歌う「主の祈り」 【英語】



アンドリュー・ハドキンソンさんの歌う「主の祈り」 【ヘブライ語】



アラブ圏の正教会 / 東方典礼カトリック教会で歌われる「主の祈り」 【アラビア語】




教会師父たちと「主の祈り」の黙想



ああ、翼にのり、深遠な御言葉の高みに昇ることができたなら(ニュッサの聖グレゴリウス、四世紀)


主は弟子たちに言われました。
「だから、こう祈りなさい。『天にいます我らの父よ。』
また、ダビデは詩篇55:6で、『ああ、私に鳩のように翼があったなら。』と言いました。おお私も、ダビデと同じような告白をします。

だれが私にそのような翼を与えてくれるのでしょうか。それが与えられるなら、わが思いは翼にのり、こういった深遠なる「主の祈り」の御言葉の高みに昇ることができましょう。そうすれば、私はこの地を後にし、天空を駈け廻り、夜空の星々とその美しい秩序を目の当たりにするでしょう

しかし、その思いはここで止まりません。それどころかそれはさらに進み、やがて、それは、流動したえず移り変わる一切のものに対し「よそ者」となる時点にまで進みます

ですから、まず私の思いは、絶え間なく流転し変化する一切のものから分離(detached)され、おだやかな霊的静けさの内に休息し、そういったものの内に導かれる必要があります。そうすれば、永久(とこしえ)に変わらない不変のお方である主に似せられた者として変えられていくでしょう。そうして後、わが魂は、いとも親しみ深きこの名をもって、この方にお呼びかけします。――「御父よ!」と。

ニュッサの聖グレゴリウス(335-394)拙訳


輝いているのは ただ一つの光 (聖キプリアヌス、三世紀)


平和の師であり、一致の主であるイエスは、『主の祈り』を、単己で個人的な祈りとしては望まれませんでした。そうです、主は私たちが自分のためだけに祈ることを望まれなかったのです。私たちは、「天にまします〈私の〉父よ」とか、「〈私の〉日ごとの糧を今日もお与えください」とは祈りません。

また私たちクリスチャンは、自分の負い目だけが赦されるようにとは嘆願せず、自分だけが試みに会わず、悪から救い出されるようにとも祈りません。そうではなく、私たちの祈りは、全ての人々を含んだものであり、そして全ての教会のために捧げられるものです。なぜならキリスト教会である私たちは、一つだからです。

太陽の光線を、光の本体から分離することはできません。というのも、その一致と統一性は、光の流れが遮断されることを許さないからです。木から枝をへし折ってみなさい。折られた枝からはもはや芽が出てこれなくなります。泉から小川をせき止めてごらんなさい。せき止められたその小川はじきに干上がってしまうでしょう。

それと同じように、主の光に彩られたキリスト教会もまた、その光線を全世界いたるところに放っています。にもかかわらず、各地で輝いているのはただ一つの光です。そうです、みからだの一致というのは分け隔てられることがないのです。

カルタゴ教会の指導者 聖キプリアヌス, On the Lord's Prayer, 3世紀(拙訳)


一日に三回、「主の祈り」を祈りなさい。(『ディダケー』、1世紀)


偽善者たちのように祈るのではなく、主が福音の中で命じておられるように祈りなさい。以下のように祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。』
一日に三回、このように祈りなさい。

ディダケー(「12使徒の遺訓」1世紀中期から後期にかけて編集された使徒の教え)拙訳


「すべての人が、声を合わせ心を合わせ」(『使徒憲章』、4世紀)


祈る時、主は御父に向かって次のように祈るよう私たちに教えられた。「みこころが天で行なわれるように地でも行われますように。」今、天にいる被造物は皆、心を合わせ神をほめ讃えている。同じように、この地上でもまた、全ての人が声を合わせ心を合わせ、独り子キリストによって、唯一のまことの神をほめ讃えんことを。

『使徒憲章』(Apostolic Constitution), 390年頃,  Ante-Nicene Fathers, vol.3, p 681. 拙訳


福音全体を要約する内容(テルトゥリアヌス、2世紀)


「主の祈り」の中には、福音全体を要約する内容が含まれている。

テルトゥリアヌス, 2世紀, Ante-Nicean Fathers, vol.3, p.681 拙訳




 




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