「セルフ・コミュニオン」と人間疎外
ものがたりの幕開け
ある晩、私(伝道者)は夢をみた。
誰もいないはずの会堂に 一人の男が立っている。
「チャオ!」彼を私を見つめ、にこやかに手招きしている。
私:えーっと、うちの教会になにかご用ですか。
男:はい、それはもう。私は彫刻家でしてね、キリスト教会の現代風なシンボリズムをぜひ かたち にしようと思っているのです。ほら、あんな感じです。
男は説教壇の方を指さした。
私:えっ、あれはジャコメッティの作品じゃありませんか。
男:そうです。私の作品です。
伝道者は穴のあくほど男を凝視した。
私:「私の作品」ですって。どういうことですか。混乱しています。ジャコメッティはもう故人ですよ。私が死人と話しているわけないでしょ。
男:「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」とあなたがたの聖典に書いてあるではありませんか。あなたはそれでもキリスト教教師なのですか。
男、異様に関心を示す
私:それはまあともかく、あなたは私たちの教会のどんなシンボリズムに関心があるのですか。
男:セルフ・コミュニオンです。
私:ああ、自分が自分に対して行なうひとり聖餐のことですね。
男:はい。私が存命していた頃にはまだなかったんですよ。流行り出したのは比較的最近のことじゃないですか。私はね、もう、あの表象の虜になっちゃって。いてもたってもいられず、あちらの世から一時帰国したってわけですよ。
講壇に立つ 一人の女
講壇に、一人の女が立っている。
前方には録画機材がセットされている。
男:あの人はね、これからセルフ聖餐のハウツーを教える、チュートリアル動画を作ろうとしているんですよ。
司祭の祝祷をした女は、聖餐のパンを裂き、目をつぶった。祈っているのだろう。二十秒くらい経った後、それをぐっと口に入れ、葡萄酒を領した。「これで自宅でのセルフ・コミュニオン完了です。」彼女は画面に向かって解説している。
男:ほぉ、こりゃ面白い。実に面白い。
男は手をうち鳴らした。
私:ちょっと待ってください。あの人は按手をうけた聖職者じゃありません。彼女は血迷っています。
男:ほら見なさい、伝道師さん。彼女はね、「個」として充足している。ほら、セルフで完結してるんですよ。彼女は牧師でもあり司祭でもある。なぜって。そりゃ、彼女が自らそのように規定したのだから。それでいいじゃありませんか。自律した人間は自己決定することができる。そうでしょ。
私:そんなことを言い出したら、教会がアナーキー状態になります。聖書には聖職者になる資格がどのようなものかしっかり書かれてあるのです。
男、話をつづける
男:聖餐式っていうのは、いつでもどこでも誰によっても自由に行なうことができるものなんだとさ。だからセルフが好きな人は、自分の手で自分の口にパンを押し込むこともオッケー。
彼女がそれを正しいと思うのならその教えを普及させればいいじゃないか。
キリスト教の教理っていうのは、所詮、各自が “聖霊に導かれ” 正しいと考えるものの寄せ集めに過ぎない――。僕にはそう見えている。
あの女の教会があり、あなたの教会があり、教皇の教会がある。信者の数だけ教会があり、教派がある。それだけのことさ。
「ああ。」伝道者は頭を抱え、呻いた。
〈セルフ神〉のかたち
私:ああ、あなたはキリスト教を誤解している。これは真理からの逸脱です。なにかが狂っている。ここは神の宮ではないのか。なぜキリストではなくセルフが崇められているのか。
男:そう、神の宮に祀られている〈セルフ神〉のかたちを僕は刻みたいのです。
私:実に忌まわしいことが教会の中で起こっています。
男:ほら、霊の目であの女をじっと凝視するんだ。見えるかい。
伝道者は悲痛な目で講壇の方を見つめた。
男:彼女が誰かわかるかい。あの女は、己にとっての総裁主教であり、司祭であり、教導権であり、教会シノドスなんだ。
彼女の見解は個人的エクス・カテドラとしての最高権威を有しており、それ以上の教会権威は他に存在しない。彼女は彼女自身において通常普遍教導権且つ特別教導権だ。
いや、彼女は「教会」自体もはや必要としていないだろう。なぜって彼女自身がすでに一つの充足・完結した「エクレシア」なのだから。
彼女は司祭を必要としない、牧師を必要としない。按手も叙階も必要としない。秘跡を必要としない。教会法を必要としない。使徒継承を必要としない。教会を必要としない。
さあ、『すばらしい新世界』の到来だ。
伝道者、必死に言い返す
私:コミュニオンの “コミュ(commu-)” は 本来、〈なんじ〉との交わりを前提としているのです。他者の存在なしのコミュニオンはあり得ないのです。セルフ・コミュニオンという言葉自体、矛盾語法です。ナンセンスです!
男:でも彼女はあくまで「セルフ」でいくらしいですよ。己が、自分のこしらえた「神像」と「交わり」を持っていると思えば、あながちナンセンスとも言えないでしょう。
私:自己崇拝ということですか。
男:まあ、そういうことですね。神の宮でもはや神が崇拝されなくなった時、何が崇拝されるようになるのか。セルフ・コミュニオンはその変異を表象する最高のシンボリズムですよ。
エピローグ
「セルフ・コミュニオン」には別名がある。それは「人間疎外」だ。
「個」の監獄を選び取った人間は、互いから疎外され、そして最終的には神に対しても疎外されてゆくだろう。
人間が人間であることは彼が三位一体の神の交わり(コミュニオン)の内に生を受け、主なる神との交わり、そして人との交わりの内に生きることだ。
「セルフ」での「コミュニオン」なるものはあり得ず、それは人間存在の最も尊いもの、根源的なものに対する残酷なまでの否定だ。
私たちはこのような形での人間性否定を、そして神なき時代のハイパー個人主義を決して教会の中に流入させてはならない。
受肉されたロゴスであられるイエス・キリストの真理の顕現の極みである聖なるコミュニオン。
ここに教会のいのちがある。
交わりの根源がある。
主よ、われらを助け給え!