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STORM 9

butterflyeffect 9

 そいつが現れたのが、ヨーセフの処刑から一週間経った晴れた夜のことだった。
街外れの街道の端でそいつを待ってた僕の前に、奴は音も立てずに闇の中から現れた。
夜がたわんで波になって、その隙間からぬるりと白い顔が這い出てきて、次いで強いタバコの香りがあたりに漂った。
男は腰を曲げて、伸ばして一服大きくタバコの煙を吐き出す。
彼の口からでてきた、息なのか煙なのか、底冷えする夜の中に溶けていった白い帷を通して、彼の濁った瞳は僕に向けられた。
背筋に得体の知れない悪寒が走って僕の喉は一瞬こわばった。
振り絞った声を出した。

「ストームの人間か」

 微動だにしない黒い獣が僕を見据えて答える。

「そうだ」

 本部ではない、別の地下アジト、アースィムの言うところの『会合場所』に僕は彼を案内した。
道中、背後の彼は常につまらなそうにタバコを吹かしていたので、僕は一言も彼と会話をしなかった。
それでも背後にある男は美しく健康的な肉体を持っていて、僕はそれをとても羨ましく思う。
ヨーセフが死んで一週間、僕は水しか飲んでいない。
ヨーセフの残したレーションは全てルルワにあげた。
何故なら、ルルワは僕の知らない間にとても酷い目にあっていたから。
慰安婦の房の警護を任されていた彼女の顔を、アルミの食器で殴ったのは、中の女性たちだと言う。
聞かされたのは別の兵士からだ、笑いながら彼は僕に言った。

「嫁さんを大事にしろよ、部屋中の女から殴られてたぞ」

 それからそいつはこうも言った。

「銃を持つより、ナニを持ってた方が幸せなんじゃないか?」

 胸の奥が誰かに殴られたみたいに熱く痛くなった。
そいつの胸ぐらを掴んでぶん殴ってやりたかったけど、それに耐えた。
これは僕の間違いだ。
毎日、教練と哨戒でここ数日は彼女の顔も見ていなかった。
僕達夫婦の部屋、部屋といっても土をくり抜いただけの穴倉に駆け込んだ僕を迎えたのは、カンテラの下で膝を抱えてうずくまっていたルルワだった。
細かったルルワの腕は、骨の筋が出始めていて、窪んだ目の縁に青黒いあざが浮かんでいた。

 太陽の香りも花の香りも消え失せて、ルルワに纏わりついていたのは房の中の女の化粧の匂いだった。
ルルワはやっぱりただ微笑んで、青く変色した頬を隠しながら僕を見上げたんだ。
もう、お腹なんて空かなかった。
ヨーセフは言った。ルルワを大事にしろって。
僕は僕が考えられる限り、ルルワの為に尽くす。
ルルワは小さく言った。

「私ばかりが、兵士として認められているから」

 虚ろな目からもう涙なんて流れない。

「お前も、この地獄に堕ちて来い、って」

 僕はルルワを抱きしめた。
女達を全員撃ち殺してやりたくなった。
でもそれはきっとルルワの望まない事だ。
それからヨーセフのレーションを全てルルワにあげた。
あの時みたいに肩を寄せ合って、この極寒の穴倉の中で温かいものを食べた。
生きる。これだけは二人で誓った。
だから生きる為に縋る。生きる為に奪う。生きる為に殺す。
空腹を感じなくなった肉体をどうにか動かして、僕は歩く。
背中にある、強欲の美しさに焼けるような嫉妬を覚えながら。

 雪で埋もれた地下のアジトの中で、彼の風体は更に際立った。

 細い、けれどもしなやかな体を締め付けるエナメル質の衣類が、地下のアジトの怯えた灯に照らされて揺れている。
カンテラで照らされた薄暗い談話室の導師アースィムの正面に椅子が一つだけ置かれていて、そこに音がするほど乱暴に腰を下ろした彼は、そのまま手の中のタバコをぽい、と大地に投げ捨てた。
導師アースィムの眉が微かに顰められて、僕は内心ドキドキしたのだけれど、導師アースィムは無言のまま彼を眺めている。
彼が長い足を動かして足を組んだ。
彼が動く毎に反射した柔らかい灯が、夜の水面を縫う船のように彼の黒い肌をあちこちに移動していく。
僕は銃を持ったまま、彼の行動を眺めていた。
こんな棒切れのような武器が、一体彼にどんな傷をつけるのか、と不安にもなった。
彼は、黒い、夜のような男。
背が高くて、顎の辺りまでで乱雑に切りそろえられた黒い髪を持っている。
前髪も同じくざんばらで、その間から覗く目の光が、深くて黒くて美しかった。
子供っぽい顔つきをしているのに、彼がそう見えないのは、きっとあの目の色の所為だろうと思う。
口元は彼を飾る唯一の色である深緑のマフラーだった。
そのマフラーの上から、更に黒いコートが彼の半身を覆っている。

 その背中はまるで黒豹のように逞しくて、肉厚で、けれども無駄がなかった。
暗い瞳には、確かに盗賊の残虐さは宿っていたけれど、飢餓の怨嗟は見えなかった。
美しい白の肌に乗るのは、整った鼻筋と冷酷な瞳。
そこから流れてくる芳しいタバコの香り。
ヒーローの様だ、と僕は思った。
戦争の前、本で読んでた砂漠のヒーロー。
それは白いマントに白い服で、盗賊や犯罪者を薙ぎ倒す。
正義と信仰に篤いイムワットの使者、そんなヒーローがもしこの世にでてきたのならきっと彼みたいな風貌だろうな、と僕は思った。それぐらい、彼を覆う雰囲気が美しくて力強かった。
もし戦争中じゃなかったなら、僕はすぐに彼のそばに駆け寄って、彼の全てを褒めそやしたろう。

 銃を持った手じゃそんなことできない。
黒い男は再び懐からタバコのケースを取り出して、断りもなく火をつけた。
正面に座る導師アースィムは緊張した顔でそれを眺めている。
明かりに黒い男が吐き出した煙が白く反射した。
機をみた導師アースィムの低い声が、煙に混ざって投げかけられた。

「よく来てくれた。心からの感謝と礼を尽くそう。私はアースィム。なんとお呼びすればいい」

 長身の男は、椅子に足を組んだまま座って、その濁った目で導師アースィムを眺めている。
少しの沈黙の後、再度口にタバコの端を押し当てて、煙を吐き出した彼は口元のマフラーを指で押し下げた。そして、一言だけ告げた。

「金は?」

 驚いたのだろう、息を吸ったついでに伸びた導師アースィムの背が、直ぐに丸まっていく。
そして多分に演技を入れて、苦しそうに答えた。

「・・・この有様だ・・・。今は、現段階では、貴兄らの望む報酬はここにはない。だが、だが、必ず用意する!貴兄らにはそれだけの価値がある!政権を奪った暁には、保有しているブラックオイルの三分の一、いや!半分を持っていけ。売れば国家予算の額の金が手に入る」

 言い切って、導師アースィムは必死に口の端を歪めた。
僕から見ても、虚勢だと解る彼の笑みに、黒い男は再び沈黙し、また深い声で告げた。

「無駄足だったな」

 切り捨てる様に呟いた彼の、右の手の甲、エナメル質の手甲に埋め込まれた金属が光になぞられたように発光するのを見た。
黒の中に浮かび上がるのは、三日月と、影の中央に輝いている星の紋章だ。
弧を描いた白色の鉱石が歌うように虹色に輝いている。
その発光は、なんだか人の発声に似ていた。
弱くなったり強くなったり、完全に消えはしないけれども波を感じさせる奇妙な点滅があったので、僕はそれを興味深く眺めていた。
虹色になる。白に、また虹色に。
その発光を聞きながら、黒い男は光と話しているかの様に鼻で笑った。
彼とその光の美しさに見惚れて、僕はそれをもっと見てみたいと思った。
じわりと、導師アースィムにバレない速度で、黒い男の右の手を覗き込む。
まる自動発光するオパールだ。
感嘆に息を吐いたら、導師アースィムの声が正面から響いてきた。
随分と焦った声だったので、思わず僕も首を引っ込めた。

「まて!待ってくれ!よく考えろ、貴兄らの仲間を殺したギルド『ベアウォルフ』は現アーシファ政権にて軍権を握っている!私達と組めば、彼らを殺せる大義名分を手に入れられるのだぞ・・・!」

 導師アースィムの鬼気迫る説得を、鼻で笑った彼は返す。

「スラッシュだ」

 再びはぐらかされた導師アースィムの歪んだ目が大きく見開かれた。
握った拳もそのまま、口をすぼめた滑稽な表情で、スラッシュと名乗るその男と、彼の所属するstormというギルドの暴力に晒される。

「スラッシュ・ライトだ。まあ、自己紹介したところで、二度とてめぇらとは顔を合わせねぇだろうから、イイ話をしてやる。耳かっぽじってよく聞け、貧乏人」

 スラッシュの唸りに合わせて、室内の気温が下がる。
そして穏やかだった灯も慌てふためいたように悶え始めた。
黒とオレンジが、彼の凄みを増した表情をせき立てる。

「俺たちに大義名分は必要ねえ。殺したい奴は殺すし、奪いたいものは奪う。ウルフの連中は、俺たちに仲間を殺された、と触れ回っただけだ。俺たちはそんな雑魚に興味はねぇ。そんな事実も存在しねえ」

 導師アースィムの口は反論する為に動いたけれど、中身は空っぽだった。
空っぽの口内にも既に恐怖が侵食し始めていて、彼の言葉の全てをつまらせた。
気温の下がった室内で、汗をかいてしまうのは、スラッシュの醸し出す全てが炎の様だったからだ。
地獄の業火、火山に出るケルベラというミツ首の狼が吐く炎だって、こんな熱さと寒さを同時に獲物に与えはしないだろう。

「俺が、俺たちが貴様らクソ雑魚の話をわざわざ聞きに来たのも、金の為だ。金がねぇんなら、俺たち、地下世界は傭兵なんかにゃならねぇよ。なんてったって、この俺よりドぎつい守銭奴が揃ってる。如何してもってんなら、家財道具と嫁と娘売って、金を作って話に来い。理解したか?」

 口元に侮蔑の笑みを浮かべたまま、スラッシュは自身の真っ黒な右手の人差し指で射るように導師アースィムを、反乱軍を、そして僕達を嘲笑した。
その静かな嘲りを、導師アースィムはテーブルの下で拳と一緒に握りしめたけれど、僕にはそれがとてつもなく爽快なものに思えてしまった。
言葉を発せずに俯いた導師アースィムを一瞥して、スラッシュ・ライトが席を立つ。
去っていく黒を憎々しげに見つめる導師アースィムの表情を見てそれから、翻る綺麗な黒いマントを目で追った。
鳥の羽の音の様だ。夜の鳥が羽ばたいて、僕達に水をひっかけて逃げようとしている。
嘴には香りのいいタバコがくわえられている。
あんな快い音を出す鳥を追いかけないなんて、なんだかすごく勿体無い気がした。
きっとあの鳥は、タンスの中にはいないだろうし、夢の中でだっていい声で鳴くんだろう。
そんな美しい黒い夜の鳥が、階段の奥の暗闇に溶けて消えていってしまう。
焦燥に煽られた足が、黒い影を追った。灯りですら安堵の溜息をついた室内へ、僕は短い断りを入れた。

「送ってきます」

 別れの言葉は、そうと理解していない間は簡潔なものだ。
僕もこの瞬間が、ここにいる反乱軍の皆との、永遠の別れになる事なんて思ってもみなかった。
僕はただ、初めてみた健康的な暴力に酔って、それに魅せられてしまったんだ。


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