ダンダダンの考察する時なんじゃない?
画像は五釘。
五釘は未だに世界の真理で、実はこれダンダダンテーマにも通じます。
ダンダダンの考察
やってる人が少なすぎてアボーンなんだけど、考察の強度に耐えられる物語なんじゃないか、っていう予感がスゴクあって。
あの一枚を見て最近はずっと「ダンダダン 曼荼羅 」で検索している始末。
曼荼羅とダンダダン、合うようで合わない。あとすごい気になるのが、中央の仏様の顔がうずまきになってるところ。すごい怖い。
反転仏、というか。邪神化した仏、というか。
なんとなく「怖い物」なんじゃないか、っていう予感だけしてるんですよ。
で。思考を膨らませていきますよ?
曼荼羅は円で構成されますよね。胎蔵界・金剛界、共に円と正方形は曼荼羅図形の基本です。
正方形、立方体をプラトン図形に当てはめると
そして、円。円運動に関しては作中かなり大きなフックになってます。それが、螺旋の力。
あの「ダンダダン曼荼羅」これ突飛な予想なので当たるかどうかわかんないですが、
「ダンダダン=魑魅魍魎・怪異の神、本質」
なんじゃないか。と。反転した仏、邪に塗れた仏、塗り仏、怪異を怪異として肯定する神、思い出すのがこの映画なんですよねえ。
うわ。今見たら中央のかおなし仏とそっくりじゃん・・・。
ダンダダンと第三フェミニズム
私が強力にダンダダンを推しまくり周囲に布教している理由がそれ。
ダンダダン=第三フェミニズム、クッソど真ん中の文脈持ってます。
第三フェミニズム
フェミニズムとは第三で完成をみた、と個人的には思うし、第三フェミに接続された複数のカス思想を今から一つ一つ切り離さなければならないとは思っている。私自身が第三フェミの潮流を受けているので、以下のポジティブさはかなり生活の中に入り込んでいるのだ。
セックスのポジティブさ
女性は美しい。女体は美しい。どんな女性だって美しいし、自分に自信をもって存在していい。女性はモノではない、貴方自身であるから(ここが野薔薇の思想)あなたが何に、どこに自信を持ったって構いはしない。また、自分が性的に見られる事すら気にしない。何故なら魅力的なものは往々にして、そういった好奇の目に晒されるから。
所謂「モテちゃって困っちゃう」文脈である。
で、第三フェミのど真ん中人間たちは、これを非常に重要視した。
マドンナの逸話しってる?
あの人、第二次性徴が始まっておっぱいの大きくなった自分の肉体を見てほしくて、「下着姿で学校に行って怒られ」てるんだよ。
よくクソフェミ連中、ふしだら批判をするバカどもを私がマスキュリストと罵倒するけれども「女の子が性的に眼差される」事の何が悪いねん。
本当に強い女性、自立した自我を持つ女性はたとえ性的な目で見られたとしても「でも好きな男は私が選ぶ」って言えるじゃん。それが内面化してないからキレて当たり散らす。意味わからん。キッショ。
モモちゃんがそれ。
モモちゃんはクソ男に「ヤらせろ」って言われたら間髪入れず蹴っ飛ばすし、宇宙人も同じように蹴っ飛ばす。
だけど、おかるんには体を寄せて手を繋ぐ。これですよこれ。女性が主体的に「大好き」を選んでいいっていう世界。親の決めた、とか、誰かに言われた、ではなくて「大好き」を自分で選んで自発的に行動していく。
今の時代だと「ギャルマインド」ですね。これ本当に重要。
ギャルマインドは本当に全人類持ってた方がいい、生きやすくなるよ。
で、この第三フェミは実は私が上記で罵倒してた「マスキュリズム」マッチョ思想ですね、所謂家父長制、と呼ばれる制度を非常に敵視してた。
当然よね、かつてのアメリカは日本以上に「お父さんが絶対」社会。
アメリカほど父権が強い国もない。だって唯一神が「お父さん」なんだもん。
お父さんが「足を出すな」→はい
お父さんが「こいつと結婚しろ」→はい
これを打ち破ったのが本来のフェミニズム。けれども、ダンダダンは令和の物語なので、本当に寛容です。家父長制を物語に組み込んでいる。
家父長制を組み込んだフェミニズム
としてのダンダダン。
いいなぁ。見ればみるほど。
実はダンディズム、という概念は非常に女性軽視的である。
女性を必要としない男、女性軽視を前提として組み上げられたのがダンディズムだ。三島由紀夫もそう言ってる。
三島はそれをゴマカシの美だと言っているけど、事実ですねえ。
で女性にはそれがゴマカシだとわかるんだけれども、あえて言わない。
そこに生まれる諧謔と赦しと寛容。男女ってそもそもそういうものだったじゃん?
そしてダンダダンは、第三フェミという「家父長制」を憎んできた概念の中に、この家父長制をぶっこんで、問題なく融合させている。これが友和であり寛容であり多様性ですよね。
「おっさんがおっさんらしく存在して、不器用な男がそのままでフェミニズムと友和できる社会」
これを目指さなきゃ、日本社会なんて立ち行かなくなるでしょうよ、当たり前の話なんだよ。
実はこの論を提唱した「エマ・ワトソン」ムチャクチャ叩かれた。
「女性と男性が手を取り合わなければ」私もそう思う。でも、フェミニズムの限界がここにあるんだよ、女性の意志を全部十全に認める事はできない。
エマ・ワトソンが叩かれた原因は、その文脈が貧富の格差に及んだこと。
「じゃあお前は、白人のヒルビリー、痛み止めすら買えなくて餓死していく頭の悪い田舎者の男性を救ったのか?」ってとこ。結局彼女が選ぶのは白人のエリート男性、格差は広がるばかりじゃないか。
そうです。フェミニズムは家父長制を否定する限り、世界に遍く不変の思想にはなりえない。女性の意志だけを尊重するなんてできない。この世界は女性も男性もクィアも存在するんだから。
女性意思を十全に認めた結果、大久保公園には立っている女性が増え、トー横キッズ達はブロンでパキる。グリ下キッズは徒党を組んで愚連隊を結成しはじめた。
リストカット、オーバードーズ、様々な弱い人達を包括できなくなる。この意味において、フェミニズムは「限界」です。
女性意思を無視してでも、つまり暴力と強制を伴って彼女達を監禁、収容しない限りあの惨状は解消できない。ここに「家父長制」の重要性が浮かび上がる。
進撃や呪術は「家父長制的」物語
エレンは「父」になった。父権とは本来憎まれ、打倒されるものなんです。ありとあらゆる神話、古典劇、物語の中心は
「少年が父を打ち破る」物語。
その父にエレンはなったんですよ。「全人類を滅ぼす役割を負って憎まれる」これが責任です。人に憎まれる事を恐れずに彼は進撃した。
そしてその家父長制であるエレンが心から愛したのはミカサというフェミニズム。
同じように、五条悟もあの物語の中では「父親」の存在だった。
私がねえ!五釘を推しに推してた理由がそこなんだよ!
野薔薇というフェミニズムと五条悟という家父長制、融合しなきゃ日本社会なんか立ち行かないんだよ!
やっと出てきた新機軸
本当にやっとです。
Xで繰り返されているバカ議論、主にクソフェミから発されるクソのようなアホ議論、一回でいいからクソフェミは自身が男性だとして
「稼いだ金が無駄に消費された上、罵倒まで受けてしまう男性の気持ち」
に寄り添ってほしい。シミュレーションしてほしい。私は常に「男性すげえなあ」としか思わねえもん・・・。
というわけで、第一回のダンダダン考察。気が向いたらまた書くかもしれません。
女性のみんな、男性を、道行くおっさんでも、キモいオタクでも大切にしよう。自分にアプローチをかけてきたキショい男でも、それがどれだけ勇気を出したか考えてみよう。おかるんみたいにさ。
男性の皆、女性を、デブを、バカを大声で笑うキチィバカ女も大切にしよう。暗くてもブスでもカワイイとこあるんだよ、知ってるでしょ?
手を取り合わなきゃ。宇宙人と妖怪みたいに。
外来種と固有種、クルド人と日本人、男と女。いっぱい喧嘩して、それから仲良くなろう。
最期に。
おかるんは最終的にはサンジェルマン伯爵、いやウルトラマンになるんじゃないか、って予想立てとくよ。
多分既に宇宙人には誘拐されてるからね、おかるんは!