路輪一人の・一人・映画・ごっつ
フューリー ★★★★
まっどまっくすふゅーりーろーどではない。
いい映画でした。
戦争を賛美するつもりではないのですが、戦時中というのは良くも悪くも色というものをとてつもなく濃くするものなんじゃないでしょうか。それは人間の欲望、暴力性、そういうものに欠けられていた薄い膜、言い換えればそれは平和という幕なんでしょうが、そういうものが取り払われて、そこにあるのは生命、だとか、信仰、だとか、倫理だとか、そういうものが、物凄くビビットな色として現れるんじゃないか、と。
逆に言えば、心底「神への信仰」を試したいのであれば、戦地に赴くのが今の時代最適解なんですよね。人間そのものの色をものすごくサイケデリックに映し出したのが戦争、なんだと想うんです。
戦争において、命とは、弾薬一つと等価交換、言い換えればそのぐらいの価値しかない。我々の命は実に軽い。まるでキャンディーバーの包み紙だ。では、主は、天にまします我らが父は、そのキャンディーバーを顧みられるのか。戦場において、死者と生者を分かつものが、信仰である、と考えるものもいるでしょう。自分が生き残ったのは、自分が死んだのは、信仰があったからだ、あるいは足りなかったからだ。
しかし目の前に広がる光景は、男も女も老いも若きも、皆平等に死ぬ世界。反戦主義者は縛り首にされ、兵士の遺体は戦車に踏み潰される、地獄、正に生き地獄。恋は一瞬で終わりを告げる、たった一発の爆撃によって。そこで信仰を失ってしまうのも当然といえば当然、皆、神を呪うはず、何故こんな世界に私を連れ出したのか!
昭和期、三島由紀夫、坂口安吾、などの文豪が、太平洋戦争期の思い出をこう語っています。安吾に関しては、「楽しかった」と。いつ自分が死ぬかわからないスリル、あんな楽しい濃密な生はない、と。三島の言葉で凄く残っているのが、インタビュー映像、「終戦を迎えたならば、あるいは日本が負けたならば、私の世界というのは崩壊してしまうはずだった。だが、8月15日の日光は、昨日と変わらず庭の木々を照らしている、私はそれが不思議で堪らなかった」
女性において、戦争はどんな意味づけを持つのか、とも考えました。フューリー、の作中に、とあるドイツ人女性と、新人兵の仄かな恋が描かれます。言葉もわからない乱暴な男達が、自分の家と町を占拠する、その中で、若くまだ戦争の、硝煙の匂いの染み付いてない男性とのキス。これがどれだけ女性に欲情と渇望を呼び起こさせるものか。恐怖と興味をあわせれば、それは魅了となる。女神転生は本当に素晴らしいゲームだな。
恐らく女性には将来忘れがたい感情体験になるでしょう。恐怖を忘れて若々しい初々しい新人兵との一夜。それは女性の本能である、保護されている、という優越感を満足させうるものである。
しかし、不思議なもので、人間は常に変化します。変化しないと言う事が出来ない動物なんでしょう。皆変化を渇望する。同じところに佇んでいられるほど、人間は強い生き物ではない、というのはうちの同人文章からの一節、平和の中に耽溺してしまえば人は混沌の戦争を希求し、戦争のカオスにあっては誰しもみな、平和を望むのです。例えば、屈強な兵士がピアノを弾いたり、荒っぽいマッチョが犬を可愛がったり、そういう自由がないというのは哀しいことですよね。
人間の娯楽の、進化の最終はなんだろう。
そりゃきっと、気が向いたときに戦争に行って、飽きたら帰ってピアノを弾く、これが最上なんじゃないでしょうか。サバゲーマーはきっと健康な精神をもっている。
っていう事を考えられるので、とてもよい映画だったのじゃ。感想だったのじゃ。批評、をするとすれば、最後の十字路死守はどう考えても悪手だったですぞい、そういう方向にいく理由がわからんですぞい。ってだけ。映像ちょうきれい。オヌヌメ