逃避行一泊二日最終話(旅二日目編)
悪夢から目が覚めて、ひらけた視界に映るものがいつもと違う事に数秒フリーズする。そして旅に出かけている事を思い出すと何だか心細い心地がした。助手席の方を振り向くと、そこには真っ白い顔の化け物がいた。いや違う。パックをしている友人がいた。一瞬飛び跳ねてしまった事を恥ずかしく思いながら、おはよ、と挨拶すると、彼女もおはよ、と答えた。昨夜の気まずさはなかったことになっていた。
「よく寝れた?」
「うん、体バキバキだけど」
「私も〜」
「てかお腹減った」
「ご飯食べよっか、どこで食べたいとかある?」
「こだわりないからどこでもいいよ、ほほえみちゃんはどっかで食べたいとかある?」
車の前を通り過ぎる人がMを二度見していくのを尻目に、私の元々の望みであった海で朝ごはんを食べる事に決定した。近くのコンビニを検索している間に交代でトイレに行くと、軽トラに乗ったおじさんに声をかけられなぜか人の頭二つ分ぐらいの大きなキャベツを持たされた。お礼を行って車に戻ると、Mは適当なコンビニを見つけたところだった。
「なんでキャベツ持ってるの?」
「分かんないけどなんか貰った。あとで分けっこしよ」
コンビニまでのナビをMに任せ、途中にあるセブンによって朝食を買い込む。私は贅沢して高い物でも買おうか散々悩んだ後、結局180円ぐらいのばくだんおにぎりを買った。昨日までのやけっぱちのような勢いは一晩で随分と萎んでしまっていた。googlemapは相変わらず変な道を案内してきて、最終的には車一台通るのがやっとな舗装もされていない道を案内された。両脇に生えた木々の枝がフロントガラスに当たり、私はこの先にせめてUターンできるスペースがありますようにと祈っていた。しかし一応は案内する気があったようで、道を抜けると急に視界がひらけて、目の前に海が見えた。
「駐車場は?」
「なさそう」
とりあえず辺りをぐるりと運転してみると、海に降りるための坂道に一列になって車が停めてあった。とりあえずそれに倣って駐車し車を降りると、磯の匂いが鼻をついた。浜辺は漂流物で溢れてしまっていた。私達は海辺には行かず、そのまま坂道に座って朝食を摂ることにした。今朝は時間が緩慢に流れているようだった。空は薄ぼんやりと晴れていて、曖昧な日差しが辺りに降っていた。薄水色をした海は手をガラスに滑らすように波を寄せては引いた。遠くの方ではサーファーが緩やかな波に飲み込まれていた。
「私ね、やめるよ」
Mが野菜ジュースを啜りながら言った。何の事を言っているのかはすぐに分かったから、何が、などとは尋ねなかった。ただ急に彼女に突き放されたような気がして心細かった。食べかけのばくだんおにぎりが今にも転げ落ちそうだった。
「いいの」
「うん。遠回しにだけど辞めろって言われちゃったし。それに、……私も辞めた方がいいと思うから」
「やめたらどうするの」
そんな言葉が口をついて出た。Mは、ほほえみちゃんが聞くの、と言って笑った。
「分かんない。でも、やめる。やめて、そっからまた考える」
そう言って、Mはいつものように微笑んだ。私にはなんでそんな事ができるのか全く理解できなかった。彼女は夢を捨てるのに。22歳という年齢で自分が望んだ未来から離れなければならないのに。なんでそんな顔ができる。
「なんで笑えるの?辛くないの?」
私は思わず尋ねた。理由の分からない焦りと行き場のない怒りが滲み出て、冷たい言い方になった。私の言葉に、彼女は一瞬唇を真っ直ぐにしたが、すぐにまた弧を描かせ言った。
「笑えるかどうかじゃなくて、笑ってるんだよ」
彼女は明るくそう言い切ると、今度はいつもの調子でこう続けた。
「だってそうじゃないとさ、もう全部ダメになっちゃうじゃん」
そう言う彼女の声はひたすらに穏やかだった。けれどその中に垣間見える彼女の悔いと苦しみに気づいて、私は自分の発言を悔いた。辛くないわけがない。彼女がどれだけこの夢を一生懸命に、そして何より楽しそうに追いかけていたのか、ずっとそばで見ていた分よく知っていたはずなのに。彼女の黒い大きな目に、私がどんな風に映っているのか怖くなった。
「ごめん」
私が言うと、Mはいつもののんびりとした様子で、いいよ、と答えたが、何を考えているのか分からない静かな目で私を見つめた。そして不意に私の背中を強めに摩った。
「ほほえみちゃん、大丈夫だよ。私たちは生きてさえいればいいんだから」
彼女は私の背中をさすりながらそう言った。あやすような口調に、自分がまるで泣きそうな顔をしているのだと気づいた。私は胸の中にあるものを誤魔化すように、残りのばくだんおにぎりにかぶりつき無理矢理飲み込んだ。その間、彼女はずっと背中を摩ってくれていた。その時の私達は、のどかな風景に似つかわしくないほどに悲しくて、どうしようもなく心細かった。けれど傍目からはきっと、私が一気に食べ過ぎたせいで咽せているようにしか見えなかっただろう。あの日の私達の本当の姿を見た人は、世界に誰もいない。
その後、せっかくここまで来たのだからと観光スポットランキングの5番目ぐらいに出てきた中田島砂丘に向かった。海をハシゴするのは初めてだった。入り口付近についた時、裸足やサンダルで歩いている人が多い事に気づく。
「くつ脱ごっか」
「うん」
そうして靴を脱いで砂丘に足を踏み入れると、疲れで強張った足が柔らかい砂の粒に軽く沈む。足を離すと足跡が円くついていた。歩くほどに、足元に絡まっていた重さが取れていくようだった。
「小さい頃さあ、砂場で裸足になるの大好きだったんだ」
「あ、私も」
二人で歩きながらそんな会話をして、旅の思い出にととりあえず足元の砂の写真を撮った。進むほどになだらかながらも長い坂が現れ、私達は一歩一歩踏みしめるようにして歩いた。途中からMが速度を上げ、それに追いつこうとしているうちにいつの間にか競争のようになった。勝負に勝ったのは体育会系のMだった。文系の私は息を弾ませながら走るように歩くしかなかった。坂道の砂は私の足に心地よく纏わり付いた。
「ほほえみちゃん、早く〜」
「無理だって、はぁ、しんど、」
そんな事を言いながら坂の頂上に着くと、そこからは下り坂になっていて、その先には海があった。さらに先には憎らしいほどの青空が広がっていた。その光景を目を細めて見つめていると、ビュウと強い風が吹いた。私の薄い服に入り込んでさっさと通り抜けていく。今までで一番心地の良い風のような気がした。
「M、私、来年で仕事辞めて転職する」
「へー」
「で、ここに引っ越す」
私の宣言にMは軽く驚きの表情を浮かべた。
「え、急だね。なんで?」
「良すぎる、ここ」
Mはそう、と一度頷いてから、ほほえみちゃんは相変わらず即断即決の人だなあ、と言って笑った。私も笑った。喜びはなかったが代わりに、明日からもちゃんと生きていける、という確かな確信があった。全てを捨てずとも良くなりそうだった。それはたしかに幸せであるはずなのに、何故だか鼻がツンとしていた。旅の終わりが近くなっていた。
砂丘を降りて車に戻った時、しばしの沈黙の後Mが口を開いた。
「帰ろっか」
私は微笑んで頷いた。彼女は明日仕事があった。時刻はもう昼に近く、そろそろ帰らねばならなかった。私はお気に入りのプレイリストを再生し、Mにナビを任せた。Googlemapが選ぶ浜松の悪路も、来年までお預けだと思うとなんだか名残惜しく感じた。車内では、私達は職場の愚痴を話した。仕事のこれがつらい、上司とソリが合わない、クレーマーがいる。まるで逃避行しようと考えてなどなかったかのようだった。行きにそうしたように、道中コンビニに寄ってGoogle mapがどんなルートで帰らせようとしているのか適宜確認しつつ、車は着々とMの家に近づいていた。
「あ、ここ私の通ってた幼稚園」
「え、ここなの?めちゃくちゃ豪華じゃん」
「え、これが?ほほえみちゃんどんなとこ通ってたの?」
「園長が住職なんだけど、職員へのパワハラがすごいって評判で、給食にいつも謎のグミが出てくるとこ」
「全然分かんないや」
そんな下らない会話をしていると、とうとうMの家に着いてしまった。ちょうど夕方で、辺りはまだ明るかったが夕飯のいい匂いが漂い始めていた。Mはちょっと待ってと告げて荷物を抱えて家に入り、しばらくして大きなビニール袋とバケツを持って出てきた。Mが運転席の窓を叩いて開けるよう合図してきたので開けると、ビニール袋を車の中に押し込んでくる。
「えっ何」
「ほら、もらったキャベツ。ほほえみちゃん一人暮らしだからちょっと大きめに切っといたから」
「あ、ありがとう」
「で、忘れてたんだけど、」
Mが後部座席のドアを開け、紙袋を取り出す。
「花火しよ。私の家の前で申し訳ないけど」
「え?やるの?」
「夏の間にまたいつ会えるか分かんないし、やろう。この花火、この夏までしかもたないと思うから」
私が了承し車を降りると、彼女は花火の袋の中から蛍光色のレーザー花火を4本ほど取り出し、そのうち2本を私に渡した。私が受け取ると紙袋からチャッカマンを取り出して私達の花火に火をつけた。花火は湿気りかけていたのか火がつくまで長かったが、着火すると綺麗な火花を出しながら輝いた。花火をするのなど数年ぶりだったが、何色にも変化しながら輝く光はいつ見ても美しかった。私達は会話もせず、ただ花火が燃え尽きる様を見続けていた。そして延々と袋の中の花火を消費し続けた。ふと気がつくと、道の向かい側の家の前で初老の男性が焚き木をしていた。白シャツと股引という格好から察するにその家の人のようだった。その時再び、ああそういえば今はお盆なのだったと思い出した。あれはきっと誰かの為の送り火なのだろう。よくあたりを見回せば、同じように焚き木をしている家がちらほらあった。そんな光景の中花火をしている私達は、随分罰当たりな送り火をしているようだと思った。
残った花火は線香花火だけになり、私達はそれに一気に火をつけて頼りない光がチリチリと燃えて輝く様を見つめていた。
「ねえ」
Mが線香花火を見つめたまま囁くように言った。
「来年の夏、またどっか行こうよ」
「うん」
私が頷くと、Mは一瞬だけ逡巡した後、続けた。
「だから、それまではなんとかがんばろうね」
Mの目に映っていた線香花火の光が一つ消えた。また一つ落ちてしまった。その時私はふと、ああ、この夏とこの旅の時間はもう一生訪れないのだという事に気づいた。私達は人生ではじめての夢の終わりの中にいて、ちょうど同じ時にこの夏も終わっていく。これが落ちたら私は家に帰り、いずれはまた今までと同じように夢の死骸がどんどん朽ちていくのを眺める日々を送るのだろう。そう思ったら急に全てが惜しくなった。愛おしくて堪らなくなった。花火が終わるまでのこの一瞬一瞬は特別で、今しかないものだ。だからせめて、今ここにある全ての火が落ちてしまうまでの光景を見届けようとまばたきを減らした。辺りは随分と冷え込んでいて、寒々しさの中光は一つだけになってしまっていた。私とMはそれがどんどん小さくなって、橙色の輝きを放ちながら揺れる様を見守っていた。それがとうとう地面に落ちて、アスファルトの冷たい地面に溶けて消えた。私は心の中で、私達のかつての夢と夏に別れを告げた。
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