0と1 第十一話 預言

0は後ろから肩を叩かれた。

振りかえると、小柄で、人の良さそうな顔つきの女性が立って居た。淡いグリーンのワンピースにネイビーのジャケットを羽織り、にこやかに微笑んでその人はいた。

「0さんですよね、穂村かぞえさんご存知ですよね。」

0は何か嫌な予感を感じた。

「はい、母ですけど。」
疑うような眼差しで、その女性を見つめる。

細い目の隙間から黒いレンズが0を捉えて佇んでいた。

「娘さんの0さんでお間違えないと。少しお時間よろしいですか?」


駅前のカフェまで移動し、席に着くと二人はブラックコーヒを注文した。
小柄な女性は名刺を差し出しながら

「挨拶が遅れてしまい、失礼致しました。私、佐々木 恵と申します。」

名刺には探偵の文字が印字されていた。

「唐突で驚かれると思うのですが、お母様が連絡を取りたがっておりまして。と言うのも、0さんのお父様がお亡くなりになり、そのことで伝えたいことがあるそうで。」

「・・・はい。」
0は佐々木のなめらかで優雅な口調に聞き入りながらも、ひとつの事実を受け取った。

「随分昔に、ご両親とは離れて暮らされて居たそうで。」

「・・・はい。祖父母の葬式にも、母は来なかったですね。」

差ほど驚くこともなく、佐々木は続けた。

「まあ、そう言ったご事情は、お母様の方からもお聞きしております。
なので、0さんの所在を探すことと、お母様が突然お会いになる事を、0さんが拒否される事もあるだろうと言うことで、私が間をとり持つような形で。」

佐々木は0の様子を伺うようにしながら、口調をトーンダウンさせて言った。



・・・いつか居なくなる。

それはわかって居た。姿はもう何十年か前に去って行ったのだし。

ただ、もう

「迎えに来たよ」
の一言は閉ざされたのだ。永遠に。

そのことが、重くのしかかる。

穴のあいたバケツにも引っかかる様な、大きな塊が入り込んできたといった具合だ。

私は自身を、自身の心の形について、穴の空いたバケツだと思ってた。

いつも満たされず、誰かの想いというものが底にのこらない。だから底が穴が空いているのかも、と。

他人の想いも、期待も、妬みも、恨みも、何か衝撃的な事実はいつも、それ自体にとらわれることなく、ただ受け入れるだけ、もくは自分のうちにやってはくるものの、素通りしていくような感覚しかなかった。

悲しみも苦しみも持続しない。
同じように喜びも。

自分のうちから、自分自身の感情から沸き起こること以外はバケツのそこにあいた穴から通り抜けてしまう。

思えば怒りが言動力で、その力のみで突き動かされて、いつも焦りや、自分としてある為の戦い方、ばかり考えていた。

なにかを慈しむ時間を持とうとも思えず。

直感的に感じたもので、通り過ぎたものの核を知ることもあるが。

どんな出来事も、基本的に全体像をつかむことくらいしかできない。

大雑把に過ぎていく。後に残るのはいつも虚しさ。それ以外は流れていく。

人間に喜怒哀楽があるのに。全てが上っ面に能面みたいにあって。
その面のしたを私が流れていく。

この捉え方のほうがよりリアルかもしれない。
世の中が流れてるようで、実は私が流れている。

実際のところはわからないけど。


そんな感覚の持ち主の私にも、今回は大きなつかえの衝撃があった。鈍く。低い音で、見えない肉体に与えられた衝撃。

微かに捨て切れなかった期待が、いつか父が和解を求めて迎えにきてくれる、それは現実には叶わない。

改めて断言された。

期待なんて持つものじゃない。でも、捨て切れない。

誰しも、期待を含んだ希望の種を一つくらいもっていたい。
思い出の中で、今の自分を確認することと同じくらい存在意義があるだろうから。



「話を続けてください。」

「・・・。まあ、手短にお話ししますと、お母様が亡くなられたお父様から0さんへの伝言を預かっており、近いうちにお会いしたいそうなのですが。直接お会いになることはできますか?」

「・・・、少し考えていいですか。」
「ええ。もちろん。」

唯一の救いは、何故かわからないが、チェロピアノ演奏のカノンが流れていた事。

目を閉じて、旋律を追いかける。

旋律が0の心を撫でる。

唇を噛み締めた。


父の伝えたい事、”一つの言葉”が浮かび上がった。

「・・・。」

テーブルの角をじっと見つめ、呼吸を整えた。

「会います。」

0は、何かを確信した。自分でも理解が追いついていないが、これから取るべき行動は記されている。それを信じることにした。

なぜなら、彼女には信頼できる者が、頼れる者が自分しかいないと自覚していたからだ。直感ではあるが、これまでも何度かそうしてきた。思考をかさね、時間を使い塾考しても、それでも辿り着けない境地があることを体験していたからだ。


佐々木は、0の何か切り替わった様な空気感に、若干驚いた。

また、落ち着いた口調で

「では、日程なのですがこちら・・・」

メモを渡す。
ざっと目を通し、佐々木に

「母は、15時以降ならいつでも会えるのですか?このメモはおおよそ15時以降で書かれていますが。」

「そうですね。なんなら・・・、今日これからでも会う事は可能かもしれません、お母様に確認を取ってからですが。なるべく早いうちにお会いしたいそうなので。」

0は考えることはなく
「では、佐々木さん、本日これから会う事ができるか確認をとってもらえますか?」

佐々木は少し驚いていたが
「はい。構いませんが。少し席を外しますね。連絡してみますので。」

そう言うと、店内を出て行った。

カノンは止んでいた。

これで良かったのか。
0は問う。

ふと、あるセリフがよぎる。

「耐えるのです。じっくりと受け止めるのです。すべては、あなたのためにあるのだから。」

なにかの作品のセリフだったか?思い出せない。

揺れ動き、微かに不安に揺さぶられている、
今この瞬間にこそ、誰かに「大丈夫、きみなら大丈夫さ」と肩を叩かれたなら・・・。

叩かれたなら、どんなに楽だろう。

自分の為に自分のできることを、気づける範囲で、自分に与えることでしか、正気を保てない。

どんな感情でも思考は止まらない。

涙がぽつり。ぽつりとテーブルに落ちた。

その雫を0は見つめていた。

無意識に、カップを取り、コーヒーを口へ含む。ストレートな酸味と単一な苦味が広がった。

中南米の豆だろうか。

中南米の標高の高い高山地帯の寒暖差が、育むストレートな味。直線のようなかおりが、コーヒーの通り過ぎた過去が開かれていくようだった。


寒暖差。

いつも私は、何かの極と極を行ったり来たりしている。

それは、コーヒと私の接点だった。コーヒーから連想する自分の過去。

それ以上は思考は進まなかった。

ただただ、内から溢れる感情を、自身の中にまた別の箇所で、受け入れるしかなかった。

母との再会を考えると、また一つ嵐がやってくるに違いなかった。
その明確な思考が、感情の波をせき止めてもいた。


テーブルに落ちた雫をペーパーナプキンで拭う。

決心はついている。それは思考より先に腹の中でださていた。

進まねば。人生を生きなければ。

幕が一つ降りる。

0はまた深いため息をついた。



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