メッシュワークという森に足を踏み入れた旅人たち
はじめに
フィールドに入ること、そして、そこから能動的に観ようとすること、問おうとすること、わかろうとすることで生まれる迷いや悩み。能動的であるということ自体を問い、受動的に振る舞ってみることで生まれる視点。傍で学ぶ仲間の優秀さに目がくらみ、自分の歩んでいる道程が正しいのか正しくないのか、不安に駆られながらも歩みを進め、時に立ち止まり、時に後もどりすることを繰り返す。8人の旅人からは今まで自分が持っている思考や行動のパラダイムを超えていきたいと願う力、他者そして自身に真摯に応答しようとする力がその場にはあった。
8月31日(土)、8月から始まったメッシュワークゼミナール3期のオンラインセッションにオブザーバーとして入らせていただいた。8人の参加者と比嘉さん、そしてメッシュワークゼミの同期だったNさんの合計11名。iPadの画面に四角く並ぶ顔。最近、仕事以外のオンラインの場に入るのがどうも苦手で、視点が重ならず、空間的情報を受け取ることも難しく、画面越しの誰かから品定めされているのではないかと勝手に居心地の悪さすら感じてしまう。事前情報を持たないまま入ったその場は、初めてのみなさんに出会えるわくわくした高揚感と、少しの緊張、どのように(どんな眼差しを持って)その場に入ろうかを決めきれない戸惑いも持ちながら、たゆたうようにそこに身を委ねる気持ちで参加した。
さて、その日は先週行われた“三島”での合宿の振り返りの日だった。それぞれにnoteやスライドで、きっと三島の2日間で一心不乱に記録したであろうフィールドノートからの気づきや反省、内省、分析、混沌、新たな問い…それぞれが辿った痕跡がそこには溢れていた。私は「フィールドワーカーたちをフィールドワークする」そして、「自分のわかりたいことをもう一度問い直す」という2つをテーマに掲げ、1年前に足を踏み入れた場、ただし中にある細胞は入れ替わっている状態の場に自分を投入させた。
8人の視点から浮かび上がる私の視点
第一のまなざし|フィールドワークという暴力
独立系書店というパブリックな空間で、お客が本を手に取る行為を目撃することによってパーソナルな部分とパブリックとの境界を探ろうとされていたSさん。プライベートなものを偶然“見てしまう”ということの暴力。ボイスレコーダーで録音すること、録画すること、写真を撮ること…フィールドワークそのものへの暴力性を感じながら、もし私たちが生きている世界、日々の営みすらもフィールドであるとしたら、私たちはその暴力性を持ちながら常に他者と接していることになる。隠したいと思うパーソナルな部分と、パブリックの中で何かを誇示したいという欲求も同時に持ち合わせているならば、その境界は何なのだろう。自分の意識が向くその瞬間を丁寧に丁寧に映画のスローモーションのように紐解いていく。
第二のまなざし|速さを変えてみる
ベルトコンベアのように流れる日々の仕事の中で、右から左にフレーム化された思考が高速で通過する。一方、学びや対話の場になった途端、感情と思考と言語の一致を吟味し、“ことば”としての発露がゆっくり進む私にとって、Mさんのその軽快な思考と言語への転換に憧れすら感じてしまう。“1時間座ってぼーっとしてみては”という話がフィードバックで出てきていたが、例えば、私が森に入って“ぼーっとする”ということをしようと試みたとしても、晩御飯のこと、仕事のこと、突如として脳裏に浮かぶどうでもいい昔話…思考しなくてもいいことが湯水の如く湧き上がる。判断を保留し、それがそこに在るのを、ただ受け止めるということの忍耐力。その中から不意に引っ張られる自分自身の意識のベクトル。意図的に歩みの速さを遅くすることで、どんな景色が見えてくるのだろう。
第三のまなざし|ヒリヒリするうしろめた
幻覚や視覚について扱おうとされているMさん。困っている人と助ける人の関係性をリサーチするために、“困っている人になってみる”という挑戦が面白い。目に見えて困っている人にそうそう出会うものではないけれど、私の周囲には「体重を減らしたい」とか、「スマホを家に忘れた」「明日食べるものがない」「病気で余命半年」なんてことまで、きっと皮膚で覆われた内側で何かに困っている誰かが存在している。携帯電話の電源を切って通行人に時間を聞いたり、道に迷ってみたり、誰かを演じるということによって気づくこともある反面、演じている自分へのうしろめたさも感じてしまう。他者に誠実であること、そして、自分に誠実であること。それは、自分の誠実さに忠実に従ってみたとき、他者がどのような応答ーそれは喜びや感謝だけではなく、時に怒りや、苛立ち、悲しみなどが現れることもあるーを示したとしても、引き受けようとする姿勢こそ、即ち“誠実さ”なのではないだろうか。
第四のまなざし|外側の評価に引っ張られる
面白いものや期待していたものが見つからないときの落胆たるや。「これを持ち帰ればきっと“面白い”何かが仕上がる」ということ、そしてそれには「面白いものを見つけなければいけない」という言葉が表裏一体で付きまとう。きっと世の中にある全てのことは面白くて、箸が落ちても笑い転げるほどに、なんの変哲もない日常を面白がれる自分自身の感受性を鍛えていきたいと思えたAさんの話。
第五のまなざし|遠い他者から、近しい他者へ
立ち寄ったカフェのオーナーと会話し、ものの40分で名刺交換をしてしまうHさん。10メートルくらい距離のある他者から30センチメートルの近しい他者へ変容するときの関わり方ー言葉、行動、視線などーには規則性があるのだろうか。プライベートでも数回お会いさせていただいたHさんには、確かに、ついつい時間を忘れて話込んでしまう何かを持っておられる。それは何なのだろう。他者の視点やフィールドに没入することと、記録するということのトレードオフ。記憶は忘れ去られ、書き換えられてしまうからこそ、例え1行でも書き留め続けるという行為自体が、立ち返れる場所としてとても大切なことなのだ(と、日々、“書けていない自分”を猛省する)。
第六のまなざし|“無駄”と思える方向へ舵を切る
誰かにとっての取るに足らない何かは、誰かにとっての大切なこと。今、取るに足らない何かは、未来のいつかには大切な何かに変わっているかもしれない。すでにnoteに三島での出来事を記述してくださっていたSさん。起こった出来事を受容しメタ化させて新たな問いへと転換されている様が、Mさんと同様に眩しく映る。“当事者”という言葉が出てきていたが、どこまで行っても他者の視点の当事者になりきれないもどかしさを感じたり、わかったつもりになって記述を進めることへの怖さや、傍観者になることによって当事者の一部分しか捉えられない歯痒さ。複雑性を複雑なままで受け取りながら、ひとつひとつをその人特有の視点で切り取り、編み上げていき、またほどき、編み上げるという作業によって、結局残るのは他者を通して受けとる自分自身の視点でしかないのだ。
第七のまなざし|違和感のセンサー
「世界に違和感を抱きづらい」と仰っていたのが印象に残る。Tさんはゆっくりと柔らかい口調に包まれる雰囲気から、自分の中にある違和感をピアノの音色のようにふわっと、時に鋭くその場に置く。ああ、そうなのだ。フィールドワークで受け取ったものを、今まで聞いた言葉、読んだ文献、ネットで見たコラム…あらゆる情報と照合し、それっぽい記述に仕立て上げていく。誰かの言葉は、本当に私がフィールドで見てきたもの、聞いたこと、嗅いだこと、触れたこと…を解釈するものなのか。本当はもっと奥深く潜っていたはずなのに、言葉がそれを遮断する。私の中に言葉が足りない、言葉が足りない、そんなことを1年前思っていた。
第八のまなざし|「人それぞれ」のその先
“ひとはどんな時に相槌をうつのか?それはその人にとってどんな意味があるのか”という問いを掲げ三島の街に飛び出したYさん。「最後に何を知りたいのかがわからなくなった」と振り返ってくださった。「人それぞれだよね」という風呂敷で覆い隠されている小さな固有さに光を当て続けることは、なんと胆力のいる作業なのだろう。82億人いる世界の人口の中で、私たちは常に“それぞれ”であり、“それぞれでない”人なんて1人もいない。さて、“相槌”についてだが、私はオンラインに入っている間、何度も相槌をしていたように思う。“あなたの話を聞いているよ(たとえ頭に入ってなくとも)”というメッセージを相槌によって他者に伝えるのと同時に、他者にそのメッセージを伝えることによって、“私はここにいる”ということにも気づいて欲しいというサインも同時に含んでいるように感じている。
おわりに
久しぶりに1000文字以上の文章を書いた。昨日の夜に書き始め、今、翌日の15時。昨日のオブザーブに入った4時間で私が受けとったことは何なのか。頭の中であや取りのように糸が絡まり、スマートに思考が進まない自分がいる。“無駄なこと”をしているのかもしれないけれど、ゼミナールが終わる2025年2月にこの記述を見返したとき、きっと何かと繋がり、何かとの繋がらなさの中でフレッシュな状態で本記述と出会い直すのだろうと思っている。
他者(自分以外の何か)に出会うことでしか、新たな自分に出会うことはできない。メッシュワークの森に迷い込んでしまった8人の旅人たち。森の中で道を見失っても、不安にかられても、それぞれにとって必要な問いが必ず舞い降りてくるという確証のない未来を信じながら、それぞれに、そして共に、旅路を楽しんでほしいと心から願う。そして、私も彼らと同じく、春までの道程を共に学び、共に問いながら、自分の思考と感覚にダイブしていく時間を過ごしていこうと思う。