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大西洋の小さな島の「世界一ハッピーな農家」を訪ねて
太平洋に浮かぶ真珠と称されるポルトガル領マデイラ諸島。港には連日、超大型クルーズ船が停泊し、フンシャル市内は数千人の観光客で溢れ、町中のカフェが地元民と観光客で賑わう。
主に観光業が経済を支えるこの島で、地元の人々は一体どんな暮らしをしているのだろうか。答えは、一部の富裕層を除いて極めて質素だ。パンデミック以降、不動産購入を目的にヨーロッパ本土やアメリカから移住した富裕層クラスの移民やデジタルノマドが多い一方、地元の人々とこういった新しいタイプの移民の間の経済格差は大きい。ここ数年でマデイラでも、テスラ等の高級車を頻繁に見かけるようになり、不動産に加え、家賃や生活費のインフレも歯止めがかからず、一般市民の経済的負担は増す一方だ。とはいえ、ヨーロッパでも随一の治安の良さ(日本からやってきた私でも、日本と同じ感覚で歩けるほどだ)や気候の良さ、そして世界遺産の月桂樹の森や鯨やイルカが集う美しい海。サーフィン、ハイキング、キャニオニング、ダイビングなどのアウトドアスポーツの聖地としても魅力あふれる場所だ。
そのような背景で、このマデイラ諸島で実際に暮らしてみると、「ここで地に足をつけて心身ともに健康的に、そして人間としての幸せの本質を見出しながら生きていくには、どうしたらいいのだろう?実際にそれを実現している人はどれくらいいるのだろうか?」と疑問を抱くようになった。ここには一見、幸せに必要な要素が揃っているように見える一方、苦労を迫られている人々が絶えないからだ。
そんな中、ある日「自称世界一ハッピーな農家がいる」という話を耳にした。一体どんな人なのだろう?そこで、実際に農園を訪れてみることにした。
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今回訪れたのは、マデイラ諸島の内陸部に位置する「キンタ・ペタゴジカ・ダ・カマーシャ(Quinta Pedagógica da Camacha)」。オーナーのブルーノさんは、エコノミストとしてのバックグラウンドを持つ元ビジネスマンだ。パンデミックをきっかけに180度キャリアチェンジし、夫婦でこの農園を購入してオーガニックの農作物を栽培しはじめたという。
ブルーノさんの祖父は、カリブ海に浮かぶ小国キュラソーの農家だった。よって、ブルーノさんがこの土地で農業を始めた時に、祖父の協力を得て栽培を始めたのだという。
「この土地は特別だ」と目を輝かせながら語るブルーノさん。「標高600メートルにも関わらず、トロピカルフルーツが栽培できるんだ。南向きで、海からの温風が直接入ってくる。1年を通じて日照時間も理想そのもの。この微気候が農業に最適なんだ。」
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農園の入り口では、番犬のスカイとスヌーピーが歓迎してくれた。「スカイは猟犬種にも関わらず、元々フンシャル市内の狭いマンションで飼われていたのを引き取ったんだ。今ではすっかりこの農園の女王だよ。」スカイに限らず、この農園にいるうさぎやモルモットや鳥たちは、保護された動物たちだ。ペットとして購入した後に手放す人が後を絶たないという。「この動物たちを森に捨てられてしまうと生態系が崩れる。だから、うちの農園で引き取って働いてもらっているよ。」
この農園では、栽培する野菜や果物、ハーブを動物たちにも与え、動物たちの糞を堆肥として利用している。動物たちも農園のエコシステムの一部として役割を与えられ、仕事をしているのだ。うさぎもモルモットも鶏も、野菜やハーブを餌付けすると目を輝かせながら近づいてくる。この時点で、「この農園の野菜は特別に違いない」と期待が高まった。
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ブルーノさんがこの農園を通じて描くビジョンは、動物保護にとどまらない、それ以上の壮大なものだ。エコノミストとしてのキャリア上の経験と知識を活かし、「農家が自然のサイクルに寄り添った農業で生計を立てられる社会」、そして「地産地消で成り立つ地元経済」と「地球・動物・人間みんなのハピネス」の実現を目指しているのだ。
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ブルーノさんは、農園で自身が栽培した農作物に加え、近隣の小規模オーガニック農家の規格外あるいは小ロットの農作物も買取り、自分の農作物とあわせて、「自分たちの言い値」で販売するシステムをつくりあげた。よって、これまでスーパーマーケットに商品を卸すことができなかった小規模農家による農作物を、食品ロスから救うことができるのだ。小規模農家には収入も入り、一石二鳥というわけである。ブルーノさんは農園内の小さなマーケットで農作物を販売し、週に数回、フンシャル市内の一般家庭に「季節の野菜のつめあわせボックス」を配達するほか、一部のレストランにも流通をはじめたという。
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「レストランへの流通は、レストランやシェフの人柄もあわせて吟味して、数を限定している。この農園がその日提供できる食材を見て、そこからメニューを考え出せるシェフと取引している。だから、もうこれ以上増やすつもりはないんだ。」
ブルーノさんの農法は、限りなく自然と季節の変化に寄り添ったものだ。「一気に収穫、ということはしない。必要な時に、必要なだけ収穫するんだ。このミカンも、まだ木に残して熟させているところだよ。」
土の栄養分を枯渇させないためにも、ブルーノさん自らミミズを育成して土に解き放ち、さらにはひとつのエリアに1種類の野菜だけを植えるのではなく、必ず数種類の作物を混ぜて植えているという。例えば、一区画にビーツ、人参、じゃがいも、白菜、ネギなど数種類の野菜が一緒に植えられているのだ。さらに、園内には希少なハーブも多く植えられており、一つ一つ味見しながら説明をしてくれる。
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「季節によって栽培できる野菜や果物は当然違う。この農園では、その季節の食材を最も自然な形で栽培し、提供している。その季節に自然が与えてくれた食材を食べるのが、自然にも人間にも一番やさしいからね。」
ブルーノさんがこのプロジェクトにかける情熱は、ブルーノさんの農作物に如実に体現されている。「まずは食べてみて」と試食させれてくれたアボカド。塩もオリーブオイルもなしで、これほどアボカドが美味しいと思ったのは初めてだ。半分に切った断面の艶が美しく、キラキラ輝いている。
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そして次は、キウイフルーツ。「マデイラでこんなに美味しくキウイが育つのに、スーパーマーケットにはニュージーランド産のキウイが並んでいる。それを変えたいんだ。」
ミカンは、日本でいう伊予柑に近い味わいだ。爽やかな香り、そして酸味と甘みのバランスが素晴らしい。
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今回は農園内のマーケットで野菜や果物、卵とハチミツを購入させてもらい、後日自宅に野菜と果物一箱分を配達してもらった。箱を開けると、一つ一つの野菜や果物が生き生きと並び、「はじめまして!」とウィンクしてきているようだった。そして、農家さんの顔やビジョンを知っていることだけでも、食材に対する意識が自然と変化するのを体感させられたのである。「食材を有難くいただく」というブルーノさんへの感謝の気持ちと尊敬、そして「無駄にはしたくない」という気持ちが自然と溢れてくるのだ。
ブルーノさんの努力はさまざまな形で認められつつある。この農園は、ナショナルジオグラフィック主催の公式ツアーでも訪れることができる。ナショナルジオグラフィックが世界中をリサーチの上、ポルトガル国内でツアーとして選んだのは本土で2箇所、そして本土外では唯一この農園のみだ。
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行政の対応や規制に時に悩まされながらも、ブルーノさんは数年で自分の夢を体現し、農園というコミュニティプロジェクトを通じて人々や動物たちにもハピネスを共有するまでに至った。この農園は、ブルーノさんが言う通り、「ハッピー・プレイス」そのものだ。人間の幸せの本質について、その見本と呼べるものを見せてもらうことができる。そしてブルーノさんの信念と情熱が波及効果を生んで、ここマデイラ諸島で、着実に少しずつ変化がもたらされつつあるのだ。
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