深層学習の祖とは~ノーベル物理学賞は何を評価したのか?真に受賞すべきだった日本人の話
スウェーデン王立科学アカデミーは10月8日、2024年のノーベル物理学賞を、人工ニューラルネットワーク(神経回路網)による機械学習の分野を切り開いた2氏に授与すると発表した。受賞が決まったのは米プリンストン大学のジョン・ホップフィールド名誉教授(91)と、カナダ・トロント大学のジェフリー・ヒントン名誉教授(76)。残念ながら、2021年の真鍋淑郎氏(米国籍)以来となる、日本人の物理学賞受賞はならなかった。
人工知能(AI)草創期の1960年代には、コンピューターが認識できるように知識をデータ化してきた。これに対し、人間などの脳の神経細胞の働きをモデルにした方法でデータを処理するのが、人工ニューラルネットの手法だ。
脳の神経細胞はシナプスを介してネットワークをつくり、学習によってその結合の強さが変わる。人工のニューラルネットワークはその仕組みを真似して「1」「0」の信号を受けてノード(結び目、点)の強さが変わるようにしたもの。1980年代以降、人工ニューラルネットワークに関する重要な研究が進展してきた。
理論物理学者のホップフィールド氏は電子や原子核が自転するスピンと呼ばれる性質をヒントに、ノード間の接続の強さを基にして値の更新を重ね、保存された画像を見つける方法を編み出した。
コンピューター科学・認知心理学者のヒントン氏はホップフィールド氏の成果を受け、特定の種類のデータの特徴的な要素を認識するよう学習する技術を開発。画像の特徴を捉えて分類したり、新しい例を作成したりする方法を生み出した。これにより機械学習の技術を確立し、現代の爆発的発展のきっかけを作ったとされている。
両氏の成果が基礎となり、近年はAIの能力が飛躍的に向上し、深層学習(ディープラーニング)が広く利用されるに至ったといわれており、両氏の成果に対し同アカデミーは「受賞者たちの研究はすでに大きな利益をもたらしている。物理学では、特定の性質を持つ新素材の開発など、幅広い分野で人工ニューラルネットを使用している」と評価したことを発表している。
同アカデミーの発表を耳にしたとき、1つの疑問が思い浮かんた。ホップフィールド氏とヒルトン氏は、名誉教授となるほど研究の功績は多くの人に評価をされています。この2人の研究は確かに偉業であり、称賛されるに値するものだというのは同意見だ。
しかし、ノーベル物理学賞は「物理学の分野で重要な発見や発明をした人」に贈られる賞であるから、「重要な発見や発明をしたかどうか」が受賞の判断になるはずだ。授賞理由がAIの発展に寄与したことだとするならば、ホップフィールド氏とヒルトン氏よりふさわしい人はいなかったのだろううか。
ホップフィールド氏の主要な仕事として知られる「ホップフィールド・ネットワーク/モデル」は、元は物性物理から派生した仕事。自然な連想記憶を可能とする系として1982年に提唱、歓迎され「第2次AIブーム」の火付け役となったものではある。
しかし、「ホップフィールド・ネットワーク」は、東京大学の名誉教授である甘利俊一氏が1972年に発表した「閾値要素の自己組織化ネットによるパターンとパターンシーケンスの学習」の焼き直しといえるのではないだろうか。ホップフィールド氏より10年も前に同様のものを発表しており、正しくは「甘利-ホップフィールド・ネットワーク/モデル」と呼ばれるべきものなのだ。
東京大学のHPにも「甘利先生は、『バックプロパゲーション(誤差逆伝播法)』や『確率的勾配降下法』として知られるニューラルネットワークの学習アルゴリズムをいち早く提案し、ニューラルネットワークの研究に多大な貢献をしました。」とあるように、ニューラルネットワーク黎明期を支えた人物として称えられている。AIの標準的な教科書では、これらのアルゴリズムの成立を1986年とし、貢献者としてヒントンやルメルハートの名前を挙げることが多いのだが、彼らの手法とほぼ同じものを甘利氏は1967年に発表した論文「適応パターン分類器の理論」で導入している。
つまり、現在のAIを支えている深層学習技術で用いられている学習則も、甘利先生の1967年の論文が源流となっているのだ。この辺りの経緯は、甘利氏の著書『脳・心・人工知能』や2024年ノーベル物理学賞発表の数日前に発売された『めくるめく数理の世界 情報幾何学 人工知能 神経回路網理論』に詳しく載っており、日本のAI研究者やそれに近い自然科学者の間では割と有名な話だ。
著書によると、海外の研究者の一部には「甘利-ホップフィールド・ネットワーク/モデルと呼ぶのが正しい。そう呼ばなければ論文は受け入れない」と言う人もいたものの、その他多数の科学者の勢いに押されてホップフィールドの名前だけが定着したとのことだ。前述の確率的勾配降下法についても、甘利氏が提案した時期はニューラルネットワーク研究の暗黒期に近かった一方で、ヒントンらが提案した時はブームの真っ最中で、提案内容やネーミングも派手だったことから、甘利氏の発見が無視されてしまったという。そして、この件が話題になるのは、実は今回のノーベル賞が初めてではない。
2019年にヒントン、ヤン・ルカン、ヨシュア・ベンジオ、いわゆる“深層学習のゴッドファーザー”3名が、「コンピューター科学のノーベル賞」とも呼ばれるチューリング賞を、深層学習への貢献を理由に受賞した時にも物議を醸した。騒動の発端となったのは、ユルゲン・シュミットフーバーという、AI研究者の中ではある種の妖怪のような扱いを受けている研究者。何かと「その研究は私が既にやっていた」と主張する“お騒がせ研究者”なのだが、その業績は圧倒的だ。彼が開発を担った『LSTM』という系列処理アルゴリズムは、AI研究における最重要手法として知られている。現在のChatGPTなどの生成AIが出る前は、『LSTM』とそれに関連する『RNN』という技術が言語処理の主役だったくらいだ。そのシュミットフーバーが、深層学習の研究の歴史を細かく調べた上で、次のような主張をしたのだ。
「深層学習における最重要発見の多くは、甘利先生や私自身、その他さまざまな研究者に帰せられるものだ。ヒントン氏ら3名だけがチューリング賞を受賞するのはおかしい。そもそも彼らの論文は、先駆者の発見を意図的に引用すらしていない。」
そして、シュミットフーバーは、今回のノーベル賞にもすぐに噛み付いた。確かに彼の言動は、AI研究者の中で煙たがられることが多い。ただ少なくとも、今回のノーベル物理学賞に関して甘利氏に触れている部分は、日本人の研究者からすると妥当な主張のように思う。
長文になるため、内容は割愛するが、詳細が知りたい方は、シュミットフーバーのX(2024年10月9日投稿)をご覧ください。105万人以上の人に読まれていることから世界中でもシュミットフーバーの意見は大きな波紋を呼んでいる。
日本には甘利氏の他にもう1人忘れてはならない人がいる。福島邦彦氏だ。福島氏は1958年に京都大学を卒業後、大阪大学や東京工科大学などの教授を歴任し、現在は一般財団法人ファジィシステム研究所特別研究員をされており、過去に日本神経回路学会(JNNS)初代会長、国際ニューラルネットワーク協会 (International Neural Network Society(INNS)) の理事会の創設メンバー、アジア太平洋ニューラルネットワーク・アセンブリ (APNNA) の会長も務めた方。
ヒントン氏たちの名が一般にも広まった一つの端緒は「深層学習 Deep learning」の成功(2006) で、これ以降、ヒントン研究室OB・OGがビジネスを含むAI界を牽引したのは周知かと思う。しかし、この「深層学習」という発想もまた、日本人研究者が、ヒントン氏たちの試みの30年近く前に、大阪で発想、実装し実現していたものにほかならない。
その研究者が福島邦彦氏なのだ。福島氏は、デイヴィッド・ヒューベルとトールステン・ヴィーゼル両博士による、視覚認識の階層型ニューラルメカニズム(1981年ノーベル医学生理学賞)を参考に、全く独自に多層・畳み込み型ニューラルネットワーク「ネオコグニトロン」を1978年に理論的に確立し、1979年に実装した。
1970年代、「第1次」と「第2次」のグローバルなAIブームの谷間にあって、日本人研究者が営々と基礎研究を継続する過程で創り出した、世界史に残る金字塔にほかならない。明らかに世界で最初の「ディープラーニング」システムは、日本・大阪で、ヒューベル、ヴィーゼル両氏の業績を基に福島氏が独自に考案された完全なオリジナルなのだ。
スウェーデン人超大物ノーベル賞受賞者として、ヴィーゼル氏は大江健三郎氏への文学賞授与など、財団側の様々なバックヤードに関わってこられた。今年100歳になり、今もお元気だが、すでにノーベル賞の選考からは外れている。もし、ヴィーゼル氏が選考に関わっておられたら、今年のノーベル物理学賞を認められたのではないだろうか。
ノーベル賞は「本当の原点」を創始したパイオニアに授賞することにある種の矜持をもっていた。2002年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんのケースは正に矜持そのものだ。当時の委員会は良心的に、また徹底してバックグラウンドで調査を行い、本当に最初の貢献を成し遂げた人を割り出し、彼/彼女を正当に評価することに誇りを持っていた。島津製作所の田中さんとしては青天の霹靂だったと思うが、それがノーベル賞の美点であった。しかし、今のノーベル財団や選考委員会は、それとは違う計算をするようになったように見えてならない。
甘利俊一氏、福島邦彦氏の両氏は深層学習の祖といえる立派な研究者であり、深層学習を評価するというのならば、彼らこそノーベル物理学賞に相応しい人物ではないか。これは、日本人だからそう思うのではなく、客観的事実からの見解。
研究への捉え方は個人差があるかもしれないが、「物理学の分野で重要な発見や発明をした人」に贈られるというノーベル物理学賞の核の部分が揺らげば、賞自体の権威がなくなってしまいかねない。
選考の詳細は我々には公表されない。私の意見は個人的な意見であり、想像の域を超えない部分もあるが、多くの人が疑問に持ち、同じような意見を持ったのではないかと思う。選考委員の方々は各分野の頂にいる方。ノーベル賞の権威を守るような選考を期待したい。
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