君は美しい(第十六夜)
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「そのドレス、とてもきれいだ」
私のワンピースを褒めた彼は、白いシャツにジーンズ姿だった。
初めて出会った日に着ていた服だと、すぐに気づく。
「妹さんの誕生日パーティは、どうだった?」
「よかったよ。ケーキがすごく大きくて、食べきれなかったけど」
そう言ってウインクする顔は、初めて会ったときより打ち解けた、いつもの彼だ。
今日が最後だなんて信じられない。
「ノリコ、どこか行きたいところはある? どこでも案内するよ」
「私、あそこへ行きたい」
今日、彼とどこへ行こうか、ずっと考えていた。
「あなたと最初に行った、あの海が見たい」
何度も一緒に歩いた、海岸通り。
「あそこでいいの? どこか、新しいところは見なくていい?」
「いいの」
私にとってあの場所がすべての始まりであり、彼との思い出のすべてだった。
「あそこがいいの」
ネスティはうなづくと、私の手をとって歩き出した。
車に注意しながら、信号のない大通りを、彼に手を引かれて渡る。
まだ明るい海岸通りは、多くの観光客や地元の人が散歩し、写真を撮ったり、堤防に座ったりして、のんびりと過ごしていた。
すでに日は暮れかけている。
スカート姿の私を見て、ネスティが背中からすっと手を回し、軽々とお姫様だっこした。
そのまま堤防の上に座らせてくれて、それから自分も、ひょい、と飛び乗る。
夕焼けにはまだ早い海を、ふたりで眺めた。
ふと気になったことを聞いてみる。
「この海って、太平洋? 大西洋?」
どこかで日本とつながってるんだろうか。
「これは、カリブだよ」
ネスティの答えを聞いて、がっかりした。
「じゃあこの先はアメリカがあって、それで終わりね」
肩をすくめる私の横で、ネスティが空を見上げる。
「ノリコの国にも、空はある?」
「もちろん」
彼は、太陽よりもっと高い位置に出ている、白い月を指差した。
「ノリコの国で、月は見える?」
「もちろん、見えるわよ」
ネスティは、私を見てにこっと微笑んだ。
「じゃあ、一緒だ。僕たちは同じものを見て、美しいと思えるんだよ」
「そうね…」
確かにネスティには、海より月が似合う気がした。
昼に会っていても、なんとなく夜の匂いがする。
「ノリコ、僕のことを思い出したい時は、鏡を見て」
「どうして?」
「僕が一番美しいと思う人が、そこに写っているから」
いつもと変わらず、私の目をまっすぐに見つめてくる。
「鏡を見るたび、僕を思い出して」
ささやく声と一緒に、彼の吐息が近づいてきた。
唇を触れ合わせながらも、頭のどこかで、それを遠くから見ている自分がいる。
ふたりで、夕日が落ちるまでとりとめのない話をしているときも。
それからいつもの家に向かって歩いているときも。
部屋に入って、お互いの服を脱がせ合っているときも。
彼の熱いリズムを体の奥に感じているときですら。
もうひとりの私が、ずっと問いかけていた。
(本当にこれでいいの?)
(彼と、もっと話さなければいけないことがあるんじゃない?)
(確かな約束をしなくて、大丈夫なの?)
何か、確かな。
彼との未来を信じられる、何かを。
でも、今この状況で、一体なにが確かだと言えるのだろう。
彼を愛している。
彼も、私を愛している。
あるのは今この瞬間の確信だけで、それが過ぎると、その確信があったかどうかさえ、きっと曖昧になる。
自分の気持ちも霧の中なのに、どうして彼の気持ちがわかるというのだろう。
ネスティの腕に包まれながら、もう1人の自分の視線をじっと感じていた。
彼女は見つめている。
この夜の私たちを忘れないために。
あとから全て思い出せるよう、彼の匂いを、感触を、声を、すべて焼きつけている。
(今夜は絶対に寝たくない)
そう思っていたのに、ネスティの鼓動を聞きながら、優しく背中を撫でる手のひらの温かさを感じながら、うっかり眠ってしまった。
ぼんやり目を覚ますと、ネスティがすぐ隣で私を見つめていた。
「...寝なかったの?」
「少しだけ」
「今、何時かな...」
体を起こして窓の外を見る。
まだ明けたばかりという感じの、薄青い空。
「飛行機、何時?」
「9時だから、7時には空港に行かなくちゃ」
「ホテルまで送るよ」
外に出ると、昼と違って少し肌寒かった。
今日もいい天気になりそうだ。
ホテルの前で、ネスティは私を優しく、しっかりと抱きしめた。
「1度、家に戻るよ。あとで必ず空港に行くから。待ってて」
「うん...わかった」
これで最後かもしれないのに。
急に不安になる。
いつものように、私を見送るネスティの視線を感じながら、ホテルに入った。
目にみるみる涙が浮かんできて、振り返ることができない。
部屋に戻り、シャワーを浴びたが、お湯がでなくて凍えそうになる。
急いで服を着て、部屋に残ったわずかな物をスーツケースに詰め込んだ。
6時20分。
ホテルの前でタクシーに乗ると、あっという間に空港に着いた。
国際空港とは思えないほど、古くて小さな建物だ。
中に入ると、まるで長距離バスの待合所のように、無機質にイスが並んでいる。
入口に一番近い場所に腰かけた。
ネスティがすぐ私を見つけられるように。
(彼は来るだろうか)
私に残された時間は、もうあまりない。
※最終夜につづく
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