君は美しい(第六夜)
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薄く目を開けると、窓からのまぶしい光が目を刺した。
「んん…」
昨夜ベッドに倒れ込んだまま、夢も見ないで寝ていたらしい。
両腕をついて、ゆっくり体を起こす。
「いたたたた…」
腰がどっしりと痛重くて、すぐには立てない。よつんばいで少しじっとしてから、そろそろと起き上がった。
「あ~…」
(筋肉痛だ)
ちょっと笑ってしまった。日本にいたときは、自分にこんなことが起こるなんて想像もできなかった。
(セックスしたせいで歩けないなんて…)
よろよろと洗面所にたどり着き、顔を洗う。
(今何時だろ)
イスの上に置いた小さいカバンを開けて、iPhoneを探す。昨日は充電もせずに寝てしまった。
(え…)
ない。
カバンに入れていたiPhoneが、ない。
サイフと携帯しか入らない小さなカバンだが、念のためサイフを取り出してよく見てみた。
空だ。
ぼやけていた頭が、いきなり高速で動き出す。
(いつ?いつ落とした?)
クラブの入口でお金を払ったときは、まだあった。
(あっ、あのとき?)
ネスティと海沿いを歩いて、堤防に上がろうとしたとき。カバンが足にひっかかった。もしかしたら、そのとき落ちたのかもしれない。
(……なんかおかしい)
違和感が残る。そのあとどこかで、iPhoneを見た気がする。どこかで…。
「あっ」
思わず声が出た。そうだ。
ネスティと、あのラブホテルみたいな家に入ったとき。時間を確認した。
深夜0時の表示を、ハッキリ覚えている。
心臓が、どきんと鳴った。
(でも、階段を上がるときに落としたのかもしれない)
いや、あんな静かな夜に階段から携帯を落とせば、かなりの音が響くだろう。
そのあと、カバンをテーブルの上に置いて……帰るときはネスティが持っていてくれて……
(ネスティが)
まさか。
まさかそんなわけが。
(そんなわけない)
そう思うのとは裏腹に、体は勝手にサイフの中身を確かめている。
(ちゃんと、ある)
お金は、お札も小銭もぜんぶ残っていた。クレジットカードも。入れっぱなしにしていた免許証も、ある。
(当たり前じゃない)
何を考えてるんだ。そんなこと、あるわけないじゃないか。
なのに、心臓のどきどきが止まらない。つま先からジワジワと上がってくる暗い予感。
(今、何時だろう)
部屋の隅に置いていたスーツケースの鍵を開け、隠していた腕時計を取り出した。就職祝いに両親が買ってくれたブルガリ。
彼が迎えに来ると言った12時まで、あと1時間半しかない。
(本当に来るのかな)
正直、わからない。わからないけど、とにかく準備をして待っていよう。
こんなモヤモヤした気分のまま終わるのはイヤだ。
急いでスーツケースの中の服をぜんぶ取り出し、ベッドの上に広げる。
(かわいい服がぜんぜんない…)
日本を出るとき最低な気分だったので、とりあえず適当に詰めてきたのだ。
迷った末、この国の女の子が着ているようなカラフルなTシャツと、白のショートパンツにした。生足を出すのは抵抗があるが、ここでは年齢に限らず誰でも肌を出している。
急いでドレッサーの前に座り、入念に化粧をした。手を抜くと、汗で化粧が溶けて悲惨なことになってしまう。
ネスティにがっかりされるのだけは、死んでも嫌だった。
鏡で、あらゆる方向から何度もチェックする。ふと、はげたネイルが目に入った。
あと20分。塗り直している時間はない。
仕方ないので、除光液とティッシュで急いでぜんぶ落とした。シンナーの臭いが鼻をつく。
無香料のデオドランドを全身に振りまいてから、香水をささっとつけた。
11時50分。ギリギリだ。
スーツケースを閉める前に、サイフから免許証を抜き、時計と一緒に隠した。それから空港で両替したお金を、少し多めにサイフに入れる。
最後にもう一度だけ全身をチェックしてから、カバンを持って部屋を出た。
ホテルの外に出ると、ネスティはまだ来ていないようだった。
ホッとして、自動ドアの横に立つ。
ドキドキしているのは、緊張しているからか、不安だからか。
目の前を行き来する人々を眺めながら、目だけで彼を探した。背が高いからすぐわかるはずだ。
きっと私を見つけて、昨日と同じ笑顔を見せてくれるに違いない。
(早く来て)
私の心臓が壊れてしまう前に。
10分、20分と時間が過ぎていく。
彼は、来ない。
後ろを振り返って、ホテルのロビーにかかっている時計をもう一度確認してみる。
12時40分。
(来ないんだ)
もう、来ないんだ。
ジワジワと、目のフチが熱くなってくる。
(何やってんだ、私)
自動ドアに映る、おしゃれした自分の姿がたまらなくみじめだった。
(泣くほどのことじゃないのに)
たった一晩の出会い。
彼との間には、何も始まってすらいなかった。失うものなどないはずだ。
(あ……でも、iPhoneが)
どうしよう。警察に届けたほうがいいのだろうか。ムダかもしれないけど。
彼を信じたい気持ちと、やっぱり許せないという気持ちが混ざって、胸をかき乱す。
スンっと鼻をすすって、こみ上げてきた感情を飲み込んだ。
(部屋に戻って、考えよう)
息を吐いた、そのとき。
誰かが、私の肩を指でトントン、と叩いた。
(ナンパ?)
無意識にそう思いながら、振り返る。
「ノリコ」
ゆうべと同じ笑顔が、そこにあった。
少し息を切らしながら。
「ごめん、バスが来なくて、ずっと待ってたんだ。ほんとにごめん」
「……」
「会いたかった。君は今日もすごくステキだから、すぐわかったよ」
「私も…会いたかった」
考えるより先に、口が勝手にそう言っていた。
「ほんと?」
両腕が伸びてきて、私をぎゅうっと抱きしめる。
「嬉しいよ」
彼の汗と香水の混ざった匂いが、麻薬のように脳に染み込んでいく。
※第七夜に続く
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