君は美しい(第一夜)
失恋した勢いで、航空券を買った。
カードでリボ払い。あとのことなんて知らない。突然10日も有給を申請した私に、上司は嫌な顔をしたが、どうでもよかった。
「俺への当てつけ?」
小さく吐き出した声は、鼻で無視した。うるさい。
お前は家で嫁の乳でも吸ってろ。
あんなくだらない男のいる職場には、1秒だっていたくなかった。
行き先は、とにかく暑くて遠くて陽気な国。
昔、オーストラリアにワーホリしたときに出会ったカナダ人が「女ひとりでも危なくないよ」と言ってたことを思い出したのだ。
もう今すぐ死んだっていい、と思っているのに。
それでも安全な場所を求めるのかと、自分にイラついたけれどしかたない。
家族を、とくにおばあちゃんを悲しませたくはないから。
(それにしても、あっつい)
タンクトップに膝丈のジーンズを履いているだけなのに、こめかみから汗がジワジワ溢れてくる。
ホテルの部屋は停電していてエアコンが使えず、かといって外に出るとナンパがうるさいので、おとなしく一階のレストランでぬるいコーラを飲んでいる。
「町には音楽があふれていて、人々は貧しいけれど陽気でいつも踊っている」と聞いていたが。
来てみると、レストランの生演奏は「チップをくれ」とうるさいし、道を歩けば5秒ごとに「中国人!」と話しかけられるし、全然わからないスペイン語でナンパされまくるし。
(英語ぐらい話せ、バカヤロウ)
日本を離れて何もかも忘れるはずが、イライラすることばかりだ。
これがもし生理前だったら、まだイライラの理由がつく。
でもあいつと付き合ってから律儀に毎日ピルを飲んでいるので、それはない。
ちなみに今も飲み続けているのは、やめると旅行中に生理が始まるから。
ただそれだけ。
ガラス張りのレストランから外を眺めていても退屈なので、クラブに行くことにした。
ホテルの前から黄色いタクシーを拾う。道を流れているタクシーはオンボロだし、値段もわからないから、乗ったことはない。
「カサデラムシカ」
行き先を言って、扉を閉める。運転手が何か聞いてきたが、わかるはずもない。車が動く気配がなかったので、行き先の方向を指さしたらやっと発進した。
このクラブはベタに「地球の歩き方」に乗っていたところだ。「外国人が多い」と書いていたのでおそるおそる来てみたら、ほんとに外国人だらけで安心した。
欧米人がほとんどで、バンドの生演奏を聞きながらみんな下手なサルサを踊っている。
奥のステージと中央のダンスホールをぐるりと取り囲むようにある、テーブル席に座った。ここはいつもエアコンが効いていて気持ちがいい。
まだバンドの演奏は始まっていないが、爆音でサルサが流れている。
ダンスホールで踊りまくる観光客をぼんやりと眺め、ほおづえをついた。
(何してるんだ…こんなとこまで来て)
本当に、こんなとこまで来て。
目に入るもの何にも、心うごかされないで。
スッと視界に何か入って、ビクッとした。
見ると、バーカウンターのスタッフが缶ビールを目の前に置いている。
そして下手な英語で
「あなたにです」
と言って去っていった。
スタッフは無表情な女性だったので、彼女からではない。
よく見ると、小さいメモ。
「Muy Bonita」
意味がわからない。その下に、「55-」で始まる数字があった。
電話番号らしい。
(ここでもナンパか…)
英語が書いてないので、外国人ではなくこの国の人間なのだろう。
しかし道を歩いていてもガンガン話しかけてくる男が多い中で、こんな方法は初めてだった。
(顔も見せないでナンパするなよ)
首を上げて、バーカウンターの方を見る。
(あっ)
こちらをまっすぐ見つめている視線と、目があった。
暗い照明の中で、浅黒い肌の彼がどんな表情をしてるかまでは読み取れない。
ただ清潔そうな白いシャツだけが光っていて、そのスラっとした背格好を浮かび上がらせている。
缶ビールを軽く持ち上げて見せると、ゆっくりうなづいた。
カウンターの端にひじをかけて立ち、こちらに来る気配はない。
(どうしよう…お礼とか言ったほうがいいのかな…)
そうだな、お礼ぐらい。
入場料が高いこのクラブに出入りできる男だから、変なやつではないだろう。
重いイスを引いて立ち上がり、ビールとメモを持って近づいた。
「こんばんは」
「こんばんは」
答えた声は低く、視線を外さずまっすぐに見てくる。
近づくと、彼は意外と若かった。
短く刈り込んだ髪はすっきりとそろっていて、肌がきれいだ。
じっと見られて、なんだか恥ずかしくなった。
「あー…ビール、ありがとう。でも実は私、ビールあまり好きじゃないのよね。よかったら、あなたこれ飲まない?」
早口の英語でまくしたてた。音楽がうるさいので、自然と大声になる。
「……」
彼は黙っている。
(しまった、英語わからなかったか)
うかつに話しかけたことを後悔した。お互いに理解できる言葉がなければ、きまずい時間が流れるだけだ。
視線をうろうろさせていると、手に握ったメモに気づいた。思わず持ち上げて、聞いた。
「これ、どういう意味?」
彼は少し考えて、またゆっくりとうなづく。理解したらしい。
そしてよく聞こえるように、私の耳元に顔をぐっと近づけて、言った。
「ユア ビューリフォ」
それが、エルネストとの出会いだった。
※第二夜へつづく
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