君は美しい(第八夜)
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「大丈夫。私、持ってる。心配しないで」
お金なんて、どちらが払っても同じことだった。
それより早く二人きりになりたい。
ネスティはそんな私を見つめ、口を開いた。
「ダメだよ、ノリコ。それはできない」
「どうして」
「君に迷惑をかけたくないんだ」
「迷惑だなんて...」
どう言えばいいだろう。なんて言えば、彼のプライドを傷つけずに受け入れてもらえるだろうか。
「いくらなの?教えて、お願い」
必死に彼の目を見て頼む。
ネスティはあきらめたように小さく息を吐いた。
「...2ペソ」
(なんだ)
安いだろうとは思っていたが、ほんとに安い。たった200円ほどだ。
彼の気が変わる前に、サイフを開いた。コインがなかったので、5ペソ札を取り出し、彼の手にねじこむ。
ネスティはしばらくお金を見つめ、それから申し訳なさそうに言った。
「ありがとう。絶対に、返すから」
(別にいいけど)
彼の役に立てた気がして、満たされた気持ちになる。
さっきバスを降りた広場に戻ると、他にもバス待ちの人がちらほらと集まっていた。
いつバスが来るのか、時刻表がないからわからない。
そもそも時間なんて決まってないのかもしれない。
日陰のない場所でじーっと待っていると、汗がにじむ。
(タクシー乗りたいな…)
いつも使っている黄色いタクシーが何台も目の前を通り過ぎ、観光客を乗せて街に戻っていった 。
あのタクシーが割高なのは知っているが、それでも大した額ではないだろう。
今日は多めにお金を持っているので、なんなく払えるはずだ。
でも、言えなかった。
(私が払うから、タクシー乗ろうなんて)
言ったらまた彼のプライドを傷つける。
30分くらい待ったところで、やっと大きなバスがゴトゴトと上がってきた。
ここが終点らしく、乗っていた人がみんな降りていく。
ネスティは私を一人用の座席に座らせると、守るように横に立った。
よく見ると、周りも座っているのはほとんどが女性と子供で、男性は立っている。
この国はみんなが女性と子供に優しいようだ。
(いいな...)
いつも満員電車でサラリーマンに押しのけられていることを思い出し、うらやましくなった。
バスが坂を下り、再びトンネルを抜けると、傾いた陽の光が目を差してくる。
ピザ屋の近くで降りて、ゆうべと同じ家に向かった。
道にはまだ家族連れが歩いている。
私たちが今から行く場所を考えると、後ろめたくてドキドキした。
その家の女主人は、私たちを見ても特に顔色を変えず、ゆうべと同じ部屋に通してくれた。
窓はすでに開いている。
ネスティはさっさと、ベッドのフチに腰かけた。
私は少し迷って、昨日と同じテーブルの上にカバンを置く。
(他に置くところもないし…)
ぐずぐずしていると、ネスティが呼んだ。
「ノリコ?」
自分の横をポンポンと叩き、座るようにうながす。
隣に座ると、優しく手を握られた。
「大丈夫?疲れた?」
「ううん、大丈夫」
「ネイル…とったんだね。でも君の爪の色、すごくきれいだ」
そう言われて、泣きたいぐらいの安心感に包まれる。
常に緊張感を強いられるこの国で、唯一信じられる場所。
今なら素直になれる気がした。
「ネスティ」
「なに?」
「...私も、あなたが好きよ」
彼の瞳が揺れる。
「あなたのことが、本当に好き」
「…うれしいよ」
そう言いながら、長いまつげがゆっくりと近づき、唇を重ねる。
あとはお互いの炎が燃え上がるのにまかせた。
きゅうくつな服を脱ぎ捨て、裸で抱き合う。
彼が私を愛撫しながら、私の手をつかんで導いていく。
求められるままに手を動かすと、ネスティは切なげに眉を寄せた。
彼のために、なんでもしたい気分だった。
私の手で、口で、舌で、感じる部分をさぐる。
動きに合わせて素直に反応する彼が、愛しい。
「ノリコ」
ネスティがたまらなそうな顔で言った。
「来て」
腕をつかまれて、仰向けの彼の上にまたがる。
ゆっくり動きながら、そのうるんだ瞳を見下ろしていると、何とも言えない恍惚感に包まれた。
今、私は彼を支配している。
こんな表情をさせているのも、快感を与えているのも、ぜんぶ私。
(このまま彼を飲み込んでしまいたい)
離れられないように、ひとつに。そうすれば、何も不安はなくなるのに。
ネスティが私の両腕をつかみ、下から突き上げてきた。
主導権はすぐさま奪われ、もう何も考えられない。
気がつくと、ネスティの腕の中でウトウトと寝ていた。
窓の外はもう暗くなっている。
彼はさすがの体力で、何度イカされたか覚えていない。
私が起きたことに気づくと、そっと抱きしめてくれた。
「疲れさせたみたいだね。大丈夫?」
「大丈夫…ゆうべ遅かったから、それだけ」
「今夜はゆっくり休んで。ほら、シャワー浴びておいでよ」
いつの間にか、バスタオルが足元に置いてあった。
「ありがとう」
タオルをつかんで、ふと気づく。
(昨日と同じ……)
胸の奥がざわついた。
「どうしたの?」
振り返った自分の顔は、完璧な笑顔を作っていた。
「ううん、なんでもない。シャワー浴びてくる」
ネスティも微笑み、チュッと「いってらっしゃい」のキスをくれた。
完璧な幸せが、私を包む。
水だけのシャワーを浴びて着替えると、カバンを持って外に出た。
家を出る前に中を確認したが、もちろんサイフは入っている。
(心配しすぎ)
昨日より時間が早いので、外にはまだ人通りがあった。
「ノリコ、お腹すいてるでしょ?」
ホテル近くの屋台で、ネスティがホットドックを2つ買ってくれる。
確かにお腹はペコペコだった。
「ホットドックって、スペイン語でなんて言うの?」
「ペロカリエンテ」
「どういう意味?」
「…熱い犬」
思わずプッと吹き出した。そのまんまだ。
ネスティも笑っている。
(スペイン語、勉強したいな)
彼と、彼の言葉で話したい。彼がスペイン語を話すときの声が、すごく好き。
さっきベッドの中でも、スペイン語で何か言っていた。
あれはどういう意味なんだろう…。
(やばい)
私、すごく好きかもしれない。昨日会ったばかりなのに。
(ネスティはどうなのかな…)
聞いてみたい気もした。でも、怖い気もした。
「明日は…」
ネスティが口を開いた瞬間、答えていた。
「会いたい」
彼がふっと微笑む。
「明日、仕事に行かなければいけないんだけど」
がっかりしたのが、モロに顔に出ていたと思う。
(会えないんだ…)
「バンドの、ライブがあるんだ」
(その前かあとに、少しだけでも…無理かな)
「見に来てくれる?」
「え?」
「ノリコが来てくれたら、うれしいな」
「行く!」
ネスティのふだんの姿が見られる。彼の友達にも会えるんだ。
(私のこと、彼も受け入れてくれてる)
朝から自分を取り巻いていたモヤモヤが、霧のように消えていく。
ホテルの前で、ネスティは私をしっかり抱きしめると、人通りがあるのも構わずに濃厚なキスをした。
「ゆっくり休んで、ノリコ。また12時に迎えにくるから」
「ありがとう。おやすみ、ネスティ」
「おやすみ。また明日」
名残惜しそうに手を離すと、私が入口に入るまで見送ってくれた。
少しのさみしさと、明日への期待。
こんなに朝がワクワクと待ちきれないのは、いつぶりだろう。
部屋に戻ってパジャマがわりの服に着替え、洗面所で顔を洗った。
今夜は早く眠ってしまおう。
バスルームを出てテーブルを横切ったとき、変な胸騒ぎがした。
そこに置いてある、小さなカバンが目につく。
(どうして)
サイフが入っていることはさっき確認した。
気にせず寝ようとしたが、胸のザワつきが収まらない。
(一応、見るだけ)
さっとカバンを取って、サイフを取り出す。急いで中を見た。
「……」
サイフは、空だった。
カードは残っていたが、多めに入れておいたはずのお札が、一枚もない。
目の前が真っ暗になり、気持ちが急速に冷えていく。
不思議と、涙は出なかった。
※第九夜につづく
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