君は美しい(第十五夜)
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朝になっても、体はまだエネルギーに満ちていた。
頭はハッキリと目覚めているが、ベッドに大の字になったまま天井を見つめる。
もう一度、自分の気持ちを確認したかった。
私は明日、日本へ帰る。
そのあと、彼が私を忘れることだけが心配だった。かといって、ずっとここに残ることもできない。
お金がないからだ。
わずかな貯金をはたいてここへ来た。お金がなくなった私を、ネスティがどう思うかはわからない。
でも、昨日はっきりとわかったことがある。
ネスティは今の私を愛している。
だから、私にできることは、ひとつだけ。彼との未来を守るために。
そのためなら、家族や友達になんて言われても構わない。
(よし)
両手を上に振り上げて、勢いよく起き上がった。
彼が迎えにくるのは夕方だから、今から荷造りしておこう。
今日のためにとっておいた、お気に入りのロングワンピをスーツケースから取り出し、しわを伸ばす。
それ以外の服をきれいにたたんで、もう一度つめ直した。バスルームに置いていた小物も片付けてしまうと、もう荷造りするものがなくなった。
「……」
ネスティがいないと、何もやることがない。
この国に来るとき、ビーチでダイキリを飲みたいとか、遠出して静かな町に行きたいとか、いろいろ考えていた。
でも、今はどこにも出かける気がおきない。
ネスティがいないなら、どこかへ行く意味もない。
スーツケースの鍵を閉めて、ぼんやりと手元を見つめた。
(私は、何をしに来たんだっけ…)
もう忘れてしまった。
でも、忘れるために来たのだ。過去の自分を。
ここで生まれ変わるために、来た。
(海外で人生が変わるって、こういうことなんだな)
ネスティと出会ってからのことを思い返すと、自然と笑みが浮かぶ。
彼と出会って、私は本当の愛を知ったのだ。
日本にいたら、きっと一生知らなかっただろう。価値観を、根底から変えるような出会い。
(理解されなくたっていい)
私が、信じると決めたから。
ゆっくりと立ち上がって、ベッドサイドに置いた腕時計を見る。
まだ正午だ。
ネスティが迎えに来るまで、ずいぶん時間がある。
部屋にいてもすることがなくなったので、仕方なく街を歩くことにした。
外に出ると、相変わらず暑かったが、風があるのでまだましな方だろう。
ホテルから歩いてすぐの、目抜き通りに向かう。
左右にお土産屋が立ち並び、観光客と現地の人間が入り混じって歩いている。
歩いていると目が勝手に、彼と似たシルエットを探してしまう。
もちろん、いない。
彼の家は、ここから遠いと言っていた。なのに、偶然出会う運命を期待している。
日本に帰っても、私はこんなふうに彼を探してしまうんだろうか。
いるはずがないのに。
似ている後ろ姿を見つけては、失望することをくり返すのか。
(耐えられるかな)
いや、耐えるしかない。彼を失わないためには、耐えるしかないのだ。
キュッと唇を噛んで、人の流れに向かって歩く。
英語やフランス語やスペイン語が飛び交うこの通りで、私はひどくひとりだった。
(ここに彼がいてくれたら)
優しく手を引いてくれたなら。それだけで、満たされるのに。
なんでもいいから、ネスティに会いたい。本当は、愛してるかなんてどうでもいい。
私には彼がたまらなく必要なのだ。
今、ひとりでこの街を歩いていて、痛烈にそれを感じる。
ふと、聞き覚えのあるようなメロディが耳に入って、足を止めた。
目の前にCDショップがあった。店の外のスピーカーから、この国の陽気な音楽が流れている。
思わず店に入った。店内はひんやりとエアコンが効いている。
レジに店員がひとりいるだけで、客はいない。
店内にも、外と同じ曲が流れていた。やっぱり聞き覚えがある。
そうだ、これは、あのライブでネスティたちが演奏していた曲だ。
歌い手の声が違う気がするから、もしかしたらカバーしていたのかもしれない。
(この曲、ほしいな)
日本でもこの曲が聞けたら、きっと思い出す。
この街の空気を、ネスティの演奏する姿を、声を、匂いを。
そう思ったら、いてもたってもいられなかった。
この国でほとんど通じた試しがない英語で、店員に声をかける。
「この曲、なんて言うの?」
必死にスピーカーを指差して、身振り手振りで聞く。
店員は何か言ったが、全然聞き取れない。
「CD、ある?」
女性の店員はニコリともせずに立ち上がると、棚の中から1枚のCDを抜き取り、手渡した。
ひとつの曲名を指差している。これがその曲だろうか。
「これ、買うわ」
レジでお金を払って、店を出た。
なんだか、宝物を手にした気分だ。iPhoneがなくなって、写真も撮れない私の、唯一の思い出。
日本でいつもこの曲を聞いて、彼を思い出そう。
ちょっと気分が良くなったので、目についたカフェに入った。
観光客用の店で、店内は明るく、バンドが軽快な音楽を演奏している。
最後だから、モヒートを頼んだ。
ネスティと始めて会った夜にも飲んだモヒート。
あのときは、彼と話すのに夢中でほとんど飲まなかった。
今まで、街の男たちに声をかけられても警戒してばかりだったのに、なぜ彼にだけは最初から心を許せたのだろう。やっぱり、そういう運命だったとしか思えない。
あのあと、夜の海岸通りを歩いて、いつのまにかキスをして…。
たった数日前とは思えないくらい、遠い昔のようだ。
広いカフェのすみっこで、賑やかな音楽に囲まれながら、頭の中でネスティとのことを何度も何度も思い返した。
冷静に思い出すと顔が赤くなるようなこともあった。ネスティにつられて、私も大胆になっていたらしい。
そんなことを考えていたら、うっかり、思い出してしまった。彼が吐息混じりに私の名を呼ぶ声を、リアルに。
体がじわり、と熱くなる。
ちょっと妄想にひたりすぎたらしい。
戻って、準備をしよう。最後の夜を迎える準備を。
ホテルのレストランで食事をとってから、部屋に戻った。
シャワーを浴びて少し休み、ゆっくりと着替えて化粧もする。
念入りに、たっぷり時間をかけて、今までで一番きれいな自分をつくった。
身支度していると、時間はあっという間に過ぎる。
時計を見ると、17時ちょうどだった。
今日もネスティは遅れてやってくるだろう。
それがわかっていながらも、急いで下に降りてしまう。
ホテルの前で、じっと待つ。初めて彼を待ったときのように、どきどきしながら。
いつもネスティが来る方を見つめて、そわそわする。
(まだかな…)
背伸びをしても、彼らしい影は見当たらない。妹の誕生日パーティが長引いているのだろうか。
背伸びをやめてかかとを地面につけた瞬間、後ろからふわっと抱きしめられた。
「ごめんね、待たせて」
大好きな匂いが全身を包む。
びっくりと嬉しさが混ざって、軽くパニックになった。
「君の待ってる姿がかわいくて、あそこから見てたよ」
見上げると、待ち焦がれた笑顔がそこにあった。
「会いたかった、ノリコ」
ああ、始まってしまった。
「私もよ」
彼との、最後の夜が。
「私も会いたかったわ、ネスティ」
※第十六夜につづく
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