君は美しい(第七夜)
※最初から読みたい方はこちら
「ゆうべはよく眠れた?」
抱きしめた体をそっと離しながら、ネスティが聞いた。
夢中でうなづいて、彼の顔を見る。
(来てくれた)
よかった。
(信じてた)
その笑顔を見ただけで、全身の細胞がふにゃふにゃになる。
今日のネスティは、黒いTシャツに白いパンツ姿で、それがコーヒー色の肌に似合ってまぶしい。
私の白のショートパンツとペアルックみたいなのが気恥ずかしかった。
「あいさつのキスをしてもいい?」
彼の声は昨日と同じく、低くて穏やかだ。
この国の女性へのあいさつは、ハグではなく両頬に1度ずつするキス。
返事をする代わりに顔を上げると、ネスティは優しく、押しつけるようなキスをくれた。
頬ではなく、唇に。
「今日もキレイだね、ノリコ」
その瞬間、ゆうべの記憶がフラッシュバックして心臓が鳴る。
(それはあいさつじゃなくて、恋人のキスでしょ)
「...ありがとう」
「じゃあ、行こうか」
ネスティが、当たり前のように私の手を引いて歩き出した。
「ノリコ、何か食べた?」
「ううん、まだよ」
「ピザは好き?」
「ええと、うん」
すると急に、ネスティが道の途中で立ち止まった。目の前の家のバルコニーに向かって、何か叫ぶ。
きょとんと見ていると、不思議なことが起きた。
バルコニーから、ロープにつながれたバスケットがスルスルと降りてきたのだ。
(え...?)
ネスティはポケットからくしゃくしゃのお札を取り出し、カゴに入れた。
バスケットは生き物のように、またスルスルと上がって行く。
見上げて待っていると、すぐに降りてきた。
中に、紙に包まれた小さなピザが2つ入っている。
半分に折りたたまれていてクレープみたいだ。
「はい、ノリコ」
手渡されたピザは熱い。焼きたてだろうか。
「......」
よっぽどおかしい顔をしていたのか、ネスティがクスクス笑っている。
「ノリコ、どうしたの?」
「なんであそこからピザが降りてくるの?」
「だって、ピザ屋だから」
「どうしてわかったの?」
「そこに書いてる」
彼が指さす方を見ると、バルコニーより更に上の壁に、ボロボロの段ボールが貼り付けてあった。
大きく “PIZZA”と書いてある。
(わああ...)
「食べてみて」
彼に言われて、一瞬
(お腹壊さないかな)
と思ったが、好奇心のほうが勝ってしまった。思い切ってひとくちかじる。
「あ、おいしい」
「でしょ?」
ネスティが嬉しそうに笑う。
太陽の下で見ると、彼の若さがいっそう引き立った。
その純粋な笑顔にドキドキする。
建物の影になっている涼しい場所に移動し、冷める前に一気に食べた。
パンみたいなふわふわの生地に、トマトソースとチーズをかけただけのシンプルなピザ。
お腹が空いていたのもあって、本当においしかった。
隣を見ると、ネスティはひたすらピザをふうふうしている。
(ネコ舌なんだな...)
あまりのかわいさに、ニヤニヤしてしまった。
私の視線に気づいた彼は、なぜかピザを差し出して
「ほしい?」
と聞いた。慌てて首を振る。
ちょうど彼が食べ終わったとき、目の前に大きな二両編成のバスが止まった。
「行こう」
見ると、まわりにいた人たちも一斉にバスに乗り込んでいく。
(ここ、バス停だったんだ...)
標識も何もないのでわからなかった。満員のバスの中で、外国人は私だけだ。
ネスティが抱きかかえるようにしっかり支えていてくれたけれど、まわりからチラチラ見られてドキドキした。
(1人だったら、絶対乗れないな...)
昨日までとは全然違う街みたい。彼と一緒にいると、すべてが刺激的だった。
バスはトンネルを抜け、小高い丘の上で止まった。降りるとそこは観光地らしく、外国人も歩いていてホッとする。
「こっち」
人の流れとは反対に、あまり整備されていない道を登った。
木と木の間から顔を出すと、一気に視界が開ける。
「わあ…!」
海を挟んで、さっきまでいた街が一望できた。
「ここは昔お城があった場所で、向こうに展望台もあるんだけど。僕はここからの眺めが一番好きなんだ」
そう言うと、ネスティは街の説明を始めた。
「あれがカピトリオ、大聖堂だね。もう何年も前からずっと工事してるのに全然終わらないんだ。それからあそこが、ノリコの泊まってるホテル。僕たちが出会ったクラブは、あのへんだよ」
「ネスティの家はどこ?」
「あの教会のもっと向こうだ」
「遠いのね」
「写真、撮ったら?」
何気なく言われて、カバンに手をかけ、ハッとする。
(iPhone、もうない)
聞いてみようか。でも、なんて?
(私のiPhone、知らない?)
ちがう。
(昨日iPhoneがなくなったんだけど…)
ダメだ。どう聞いたって、不自然になる。
最悪、彼は「疑われた」と感じるかもしれない。
今のこの時間を、壊したくはなかった。
ネスティが私の顔を見て、ふっとほほえむ。
「ノリコの国は、もっと発展してるんだろう?この国を見て、貧しいと思わない?」
「……」
そんなことはなかった。
確かに日本と比べたらすべてが古いし、モノは少ない。
でも。
(ここに来てからのほうが、気持ちはずっと自由な気がする)
そう説明したかったけれど、ちゃんと伝わるかわからなかった。
代わりに、こう言った。
「私、この国が好きよ」
(あなたのいる、この国が)
本心だった。
「ありがとう。僕もここが好きなんだ。君がそう言ってくれてうれしいよ」
彼の笑顔が見られて、私も嬉しい。
それからしばらく、景色を眺めながらとりとめのない話をした。
ネスティの英語は完璧とは言えないし、ところどころスペイン語も混ざっている。でも不思議と、彼の言ってることはすべてわかった。
こんなに穏やかな気持ちは久しぶりだ。自分がいかに疲れていたのか、やっと気づいた。
怒ったり、恨んだり、過去を思い出して眠れなかったり。
そういうことに、もう疲れ果てていた。
(まずい)
悲しいわけではないのに、目の端に涙が浮かんでくる。
慌てて景色を見るフリをした。
(そういえば、ちゃんと泣いてないな)
悲しみを怒りに変えて、ここまでやってきたのだ。
と、うしろからふわっといい匂いが近づいてきて、私を包みこむ。
ネスティに背中から抱きしめられていた。
「…どうしたの?」
急に黙った私に、心配そうな声で聞く。
「なんでもないわ」
「ノリコ」
斜め上から、彼は私の目をのぞきこんだ。
「僕は、君のことが好きだよ」
誠実な瞳で。
「君のことが大好きだ」
(…私も)
答える前に、彼の顔が近づいてくる。
触れるように何度かくちづけたあと、その胸に抱き込まれた。
静かな風の音と、ネスティの鼓動だけが聞こえる。
細い指が私のあごを持ち上げ、そのまま深く唇を合わせていく。
今日会ったときから、ずっと彼に触りたかった。
両手でしっかりと抱きしめ、その感触を確かめる。
ネスティの指が、そよぐように私の背中を撫で上げた。
何度も、ゆっくり、手触りを楽しむように指先が上下する。
そのたびに体中に電流が走った。
欲望の波にさらわれてしまわないよう、キスに意識を集中させる。
それに応えて、ネスティはさらに強く私を抱きしめ、より熱く舌を動かす。
お互いの身体にともった炎に気づきながら、わざと燃え上がりすぎないようにしてるみたい。
すごくもどかしくて、すごく、気持ちいい。
(負けそう…)
ネスティは焦らすのがうまいと思う。
もっと来て欲しい、その手前でスッと引き、またゆっくり火をつけるところから始めるのだ。
何度もそれをくり返されて、だんだん我慢できなくなってきた。
(この人が、欲しい)
吸いつく唇を離し、彼を見る。
太陽の光に透かされたその瞳は、茶色いガラスのよう。
少しだけ苦しそうに見えるのは、ゆうべと同じ熱を彼も感じているのか。
「私…」
(あなたが欲しい)
「二人きりに、なりたい。昨日みたいに…」
そう言うのがやっとだった。
「……」
彼は長い間、何も言わなかった。
だんだん不安になってくる。同じ気持ちだと思ったのは、勘違いだった?
「ネスティ?」
その瞳からは何も読み取れない。
「…僕もだよ、ノリコ。でも、できない」
「どうして?」
ネスティはきゅっと口を閉じると、目を伏せた。
「…お金を持ってない」
なんだ。
(そんなことか)
心からそう思った。
「大丈夫、私、持ってる。心配しないで」
私にとっては、どうでもいいことだった。
こんなに求め合っている二人が、このままここに立っていることのほうが不自然だった。
ネスティがじっと考えるように私を見つめている。
そしてゆっくりと、口を開いた。
※第八夜につづく
※最初から読みたい方はこちら
応援していただけると嬉しいです。