君は美しい(第三夜)
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「もっとノリコと一緒にいたい」
そう言われて、気の利いた言葉など何も返せなかった。ただ所在なく目をうろうろさせるだけ。
「行こう」
ネスティが再び私の手を引いて、夜の街をまっすぐ歩いていく。
昼の熱気が嘘のように、風が心地よい。
5分も歩くと海が見える海岸通りに出た。
ここは、街のデートスポットだ。海岸に沿って長い堤防が続き、その上にカップルたちが微妙な間隔を空けて座っている。
(修学旅行で行った、京都の鴨川みたいだな)
こんなタイミングで変なことを思い出した。
堤防沿いを、そっと手をつないで歩く。
建物は暗いがオレンジの街灯が一列にともり、カップルたちも途切れることがないので、思ったより怖くない。
少しの空間を見つけて、ネスティが振り向いた。
「ここに座ろう」
彼が先に堤防のフチに上がり、私の手を引いて登るのを手伝ってくれる。
思い切って足を上げたら、斜めがけにしていた小さいバッグがからまって、よろけてしまった。
とっさにネスティが両手を伸ばし、私の脇腹をホールドして、ふわっと持ち上げる。
(えっ)
慌てて彼の両肩にしがみついて、なんとか堤防に座った。
「ご、ごめん。ありがとう」
ネスティは軽く首を振ってほほえんだが、私は半袖シャツから伸びた彼の筋肉質な二の腕が、気になってしかたがない。
足を海側に下ろして、並んで座った。
真っ黒で静かな海が、どこまでも広がっている。昼は車やバスの往来で騒がしいこの海岸通りも、今はひっそりとしていた。
隣のカップルの話し声も聞こえてはこない。
しばらく海を見つめていたネスティが、ふと私の顔を見て笑った。
「さっきあそこで初めてノリコを見たとき、信じられないと思った。あまりにきれいで」
「...冗談でしょ」
残念ながら、私は自分の身の丈を知っている。不倫相手にすら捨てられるような女だ。
しかし彼の瞳は真剣そのものだった。
「冗談なんかじゃないよ。ノリコの黒くてまっすぐな髪、本当にきれいだ」
そう言って私の前髪を少しだけ指ですくった。
「肌も白くて、美しいよ」
前髪をすくった指で、私の腕をそっと撫でる。
「...きれいな爪だね。すごく似合ってる」
そう言って手をとり、はげかけたネイルを親指で優しく撫でながらじっと眺めている。
彼の、コーヒー色の細長い指の方がよっぽどきれいだった。
でも言えなかった。
ネスティのように、正直な気持ちをすぐ声に出せたらどんなにいいだろう。
彼と話していると、自分の中の打算的な部分があらわになって、溶けてゆくようだ。
「ノリコ」
ネスティが私の爪から視線を上げ、そのまま真っ直ぐに見てくる。
熱を帯びた瞳が目の前にある。
彼の首すじの匂いにとりまかれて、窒息しそう。
「キスしてもいい?」
なんでいちいち聞くんだろう。
なんて答えたらいいかなんて、わからないのに。
黙って、ただ彼の瞳を見つめ返していたら、その長いまつげがどんどん近づいてきた。
目を閉じた。
唇を、優しい感触がなぞっていく。左右に、上下に、頬に、まぶたに。
ゆっくりと、さざ波の音に合わせるように、少しずつたかぶっていくのがお互い、わかる。
私たちはあそこで何時間キスをしていたのだろう。
ネスティが私の肩に手を回し、そっと引き寄せ、何度も何度も唇を合わせた。
「君は本当にきれいだ」
「こんなすてきな女性には初めて会ったよ」
低い声が私の体に染み込んでいく。
外は涼しいはずなのに、彼の体も私の体も、とても熱かった。
世の中には、こんなにも甘いキスがあるのか。
(罪悪感のないキスは久しぶりだ)
外でキスなんて、あいつとは絶対できなかった。いつも、あいつの車に乗ってホテルに直行するだけ。
あいつはキスするとき、こんなにまっすぐ私の目を見ていただろうか。
熱い吐息が乾く間もなく、次から次に呼吸が重なって。
生き物のように動く舌が、私の全身を溶かす。
何十回、何百回めかのキスのあと、彼は私の頭を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。そしてため息を吐くように、こう言った。
「ノリコのホテルに行ってもいい?」
首すじのむせかえるような匂いに包まれて、もう息もできない。
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