君は美しい(第二夜)
※第一夜はこちら
「ユア ビューリフォ」
そのぎこちない英語に、少し笑ってしまった。すると彼も、はにかむように口元だけで笑う。
私が喜んだと思ったのかもしれない。
(まあ、いいか)
少し気をよくしたのか、今度はスペイン語で質問してきた。
「キエレ バイラール?」
この言葉だけは、来てすぐに覚えた。道でも、クラブでも、みんなが聞いてくるから。
「踊らない?」
「ごめん、踊れないの」
「教えてあげるよ」
「踊るの、あんまり好きじゃなくって」
サルサなんて踊ったことがないし、欧米人だらけのこの空間で、自分が踊って目立つのも嫌だ。それぐらい、アジア人はどこに行ってもジロジロと見られる。
「じゃあ飲まない?おごるよ」
どうせひとりでいても退屈なので、おごってもらうことにした。
缶ビールは彼に渡して、モヒートを注文する。
この国はモヒートがおいしいと聞いて、初日に「地球の歩き方」に載っている有名店へ言ってみたが、ふつうだった。というか、この暑い国ではキリッと冷えた飲み物だったら、なんでもおいしいような気がする。
(あんまり冷えてないな)
ぬるいモヒートをストローで吸い込み、彼が缶ビールをひとくち飲むのを待って、聞いた。
「名前はなに?」
「え?」
言葉が、ちょうど始まったバンドの演奏と重なった。しかたなく、彼の耳元に口を当てるようにしてもう一度聞く。
彼は私の目をじっと見て、顔をすぐそばまで寄せて答えた。
「エルネスト」
「エル…?」
長いのと発音がわかりづらいのとで、聞き取れなかった。
彼は再び私の目をじっと見る。クセなのかもしれない。
「君、この国のことあまり知らないの?」
突然の質問になんて答えようか一瞬迷ったが、嘘をついてもしかたがない。
「あんまり…」
(そっちだって日本人なのにみんな「中国人」って声かけるじゃん)
そう言おうとしたが、やめた。だって彼は言わなかったから。
私が日本人だとわかっているのかもしれない。
「エルネスト。だけど、ネスティでいいよ」
エルネストがなんでネスティになるんだ…と、ちょっと考えてしまう。
「君の名前は?」
「ノリコ」
「ノリコ」
彼は私の名を一発で言えた。
今まで、英語圏の友達にはずっと「ノルィコ」って発音されてきたのに、彼のそれは自然だ。
(なんか、うれしい)
それから、彼のつたない英語を解読しながら、いろんな話をした。
彼もサルサのミュージシャンで、何か太鼓のようなものを担当しているということ。
このクラブで演奏したことはまだないが、スタッフと顔見知りなので無料で入れてもらえるのだということ。
24歳で、母と母の恋人と妹たちと住んでいること。英語は独学で勉強したんだそうだ。
私と3つしか違わないのに、24と聞くとひどく年下に感じる。でも彼の態度はとても落ち着いていて、低い声でゆっくり話す様子は、うちの弟とは大違い。
(そっか、弟より年下なんだ)
そう思うと、居心地が悪いような気持ちが少し薄れた。日本人だから若く見られているかもしれないが、私は彼よりしっかりしている。
後ろの演奏の音がうるさくて、額をくっつけるように話さないとお互いの声が聞こえなかった。
彼は決して必要以上には近づかず、すこしひじが触れただけで
「ごめん」
と引っ込めてくれる。
バーカウンターの周りは人でごった返していたが、彼は後ろに誰か通るたびに、さりげなく手のひらで私の背中を支え、ぶつからないようにしてくれた。
彼が頭ごしに後ろをふり返ると、首すじからいい匂いがする。
(香水ぐらいつけてくればよかった)
急に自分の汗臭さが気になった。
気がつくと、いつのまにか演奏が終わっていた。ぬるいモヒートはほとんど減っていないのに。
「帰らなきゃ」
出口に流れる人ごみを見て、私もそっちに向かおうと体の向きを変えたときだった。
「待って」
彼がとっさに、という感じで私の手をつかんだ。細くて冷たい指。
「ちょっと、外を歩かない?」
「え……」
迷った。彼を警戒していたわけじゃない。
「でも…今出ないとタクシーがなくなるから…」
クラブの前にとまっている外国人用のタクシーに乗らないと、ホテルに帰れない。まだ夜の9時だが外は真っ暗で、できるだけ安全に帰りたかった。
「少しだけ。僕がホテルまで送るから」
「……」
返事を迷っていると、スタッフがやってきて何か言われた。たぶんもう出てくれ、とかそんな感じ。
クラブの照明も明るいものに変わっている。
彼は私の手を引いて、さっさと歩き出した。
クラブの出口を出て、タクシーの前を通り過ぎ、そのまま歩いていく。
「ちょっと待って…待って、エルネスト!」
引っぱられていた手を引き返すと、彼はやっと立ち止まってくれた。
外で見ると、彼はこの国のほかの男たちより、頭ひとつぶん背が高くて細身であることに気づく。
「ネスティだよ」
彼はそっと私の手を離した。
そして一歩だけ前に出て、正面に立ち、またじっと見つめてくる。
風に乗って、彼の首すじの匂いがした。
ネスティは私から視線をそらさずに、言った。
「もっとノリコと一緒にいたい」
※第三夜につづく
応援していただけると嬉しいです。