君は美しい(第十夜)
※最初から読みたい方はこちら
(私だけは、彼の気持ちを信じる)
そう決めたら、もう迷いはなかった。
ヒロミのメールはショックだったが、おかげでかえって気持ちが固まった。
インターネットルームを後にし、簡単な朝食を食べて部屋に戻る。
今日の服は、迷った末にピンクのレースがついたキャミソールと、ミニのフレアスカートにした。
スカートは日本だったらぜったいレギンスを履きたい短さだが、この国ではみんな惜しげもなく肌を出している。
今日は初めて、ネスティの知り合いに会うのだ。
少しでも女性らしく、魅力的に見えるようにしたい。
メイクも少し濃い目にして、昨日とは雰囲気を変えた。彼はそういう細かいことにも気づいてくれるので、おしゃれのしがいがある。
12時10分前に、ホテルの前に降りた。
人通りの多い入り口付近に立っていると、男性からジロジロ見られるのを感じる。
(早く来て)
しかし昨日と同じく、彼はなかなかやって来ない。でも、もう不安になったりしない。
待っていれば、必ず来る。
30分ほど経った頃、待ちわびていた声がかかった。
「ノリコ」
(ほら、来た)
笑顔で振り返ると、ネスティも微笑んで立っていた。
今日は赤いTシャツに黒のパンツ姿だ。体にぴったりと張り付いたシャツが、筋肉質な体を浮かび上がらせている。
ネスティはすぐに私を引き寄せて、正面からぎゅっと抱きしめた。
「今日は一段ときれいだね。君は本当にすてきだ」
そう言って、唇にキスをくれる。彼の匂いを思いっきり吸い込んだら、さっきまでの嫌な気持ちが吹き飛んだ。
「行こう」
ネスティに手を引かれるままに歩き、やがて古い建物が並ぶ路地に入っていった。
入り組んだ路地を抜けると、目の前にいきなり、アートな絵画が描かれた壁が現れる。壁をくぐって中に入ると、狭い広場に簡単な屋根をつけただけの、素朴なステージがあった。
隅の方に楽器やマイク、音響機材が固めて置いてあり、反対側にはパイプ椅子が並べてある。
すでに人がちらほら集まっていて、どうやらそこが客席らしい。
ネスティは私から手を離すと、準備をしているスタッフの男たちに、腕を絡ませて握手する独特の挨拶をしながら奥に進んでいった。
私もはぐれないように付いていく。
彼の楽器は、ボーカルマイクの真後ろに置かれている、縦長の大きい太鼓だった。椅子に腰掛け、太鼓を足の間にセットする。
「ノリコ」
斜め後ろの箱を指差して、私を呼んだ。そこに座って、という意味らしい。
バンドのスタッフやほかの楽器の人たちはそれぞれ準備や雑談に忙しく、誰も私のことなど気にしていない。
言われたままに座ると、ネスティは両手でコンコンッと太鼓を軽く打ち鳴らした。
見た目の大きさに反して、意外と軽い音がする。
「暑くない?大丈夫?」
「うん、大丈夫。ねえ、その楽器なんていうの?」
「コンガ」
「どうやって勉強したの?」
「学校で。ティンパニーとか、ドラムも習ったけど、僕はこれが好きなんだ」
「そうなんだ。楽しみ」
「うん、楽しんで」
話している間に、ボーカルの人がやってきて、マイクチェックを始めた。
今からリハーサルが始まるのだろうか…と思っているうちに、そのボーカルが観客に向かってマイクで話し始めた。
よくわからないけど、いきなりライブが始まったらしい。
挨拶を終え、ボーカルがこちらに向かって手を振り上げる。
「ウノ、ドッ、トレッ」
のカウントとともに、音楽が始まった。
曲は、荒削りなサルサ。
ディスコよりも音響がちゃんとしていないので、あちこちから乱雑に音が向かってくる。
割れたマイクの声と、複数の太鼓が奏でるリズム。
ネスティの細い指からつむぎ出される、かん高くて繊細なスタッカート。
彼自身を表すかのような、情熱と上品さが内在した音が、私の足元から響いてくる。
(なんて誠実な)
目の前の一瞬にすべてを注ぎ込むその瞳は、いつも変わらない。
彼は私の前でだけ、誠実の仮面をかぶっているわけではなかった。
いつでもどこでも、変わらないのだ。
斜め後ろから、演奏する彼をひたすら眺める。
大きくリズムを刻む足、太もも、上下に揺れる腕。タップダンスを踊るように跳ねる手のひらと、指。
指揮者でもある歌い手を、一心に見つめるその瞳。
すべてが美しかった。
セックスしているときと同じぐらい、野性的でセクシー。
いつの間にか曲が終わり、ボーカルが客席に何か話している。
ネスティは手のひらで額の汗をぬぐうと、私を振り返って微笑んだ。
「どう?」
「すごい…本当にすてき」
「よかった」
まるで大人に褒められた子どものように、くしゃくしゃな顔で笑う。
(ああ、彼は音楽が好きなんだな)
好きな人が好きなことをしているのを見るのは、こんなにも楽しい。
観客が曲に乗って踊りだす。気がつくと狭い空間にみっちりと人が集まっていた。
(みんな、見て)
こんなにすてきな男が、私のことを好きだと言っている。毎晩私たちは気持ちを確かめ合っているのだ。
私の男を、見て欲しい。
ネスティの音楽に包まれながら、このあと彼に抱かれることを想像した。
すると完璧な恍惚がやってきて、私をさらっていく。
曲のあいまに、彼が私の方を振り返り、ニコッと微笑む。この特別なポジションを守るためなら、なんだってできる気がした。
最後の曲が盛り上がりのループを抜けて終わったとき、私は完全にネスティと一体化していた。
ああ、今すぐ彼に抱きついて、キスしたい。
どれだけあなたがすてきか、伝えたい。
(早く振り向いて)
そう思った瞬間、遠くから声が聞こえた。
「ネーーーーースッ!」
彼が、声の方を振り向く。私の方ではなく。
立っていたのは、彼と同じコーヒー色の肌を持つ女の子。
カールした髪が腰まで伸び、Tシャツを盛り上げる胸の谷間が若さを強調している。
すらりと伸びた足でこちらに近づき、そのままネスティに抱きついた。
ざらりとした気持ちが、胸をさらう。
(やめて)
触らないで。
私のなのに。
彼女は私の視線になどまるで気づかず、ネスティの両頬にチュッチュッと、ご丁寧に音まで立ててキスをした。
「エリ」
ネスティが彼女に微笑みかける。
二人で何か親しげに話しているが、全然わからない。
ただ、女の両手がネスティの首にかかっているのだけが気になった。
(誰なの)
さっきまでの高揚した気持ちが、一気に地面に叩きつけられたようだ。
彼に、私以外に親しい女がいるなんて、考えてもみなかった。
二人はまだ、目の前で楽しげに話し続けている。
いっそこの場から消えてしまいたかった。
※第十一夜につづく
※最初から読みたい方はこちら
応援していただけると嬉しいです。