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日本アニメの可能性に挑んだ映画「シリウスの伝説」(映画『シリウスの伝説』公開40周年記念企画①)

1981年7月18日に公開されたサンリオ製作・公開のアニメ映画『シリウスの伝説』は、2021年7月18日をもって公開から満40周年を迎えます。それを記念して、公開当時の文献・雑誌等に書かれた本作に関する記事やコラムの文字起こし、本作を題材にしたミュージカルのレビューなどを、メモリアルデーの7月18日まで数回にわたって掲載いたします。

第一弾は、『キネマ旬報』1981年7月上旬号に掲載された『シリウスの伝説』公開記念座談会の文字起こしを掲載いたします。参加者は辻信太郎さん(『シリウスの伝説』原作/製作)、波多正美さん(『シリウスの伝説』監督)、大林宣彦さん(映画監督)、里中満智子さん(漫画家)。四名のプロフィールは掲載当時のものです。本記事の無断転載はご遠慮ください。

参加者プロフィール

辻信太郎氏
昭和2年、山梨県生まれ。サンリオを設立し、「星のオルフェウス」「キタキツネ物語」「アフリカ物語」を製作。

波多正美氏
昭和17年、台北生まれ。多摩美術大学中退後、虫プロにアニメーターとして参加。「クレオパトラ」「チリンの鈴」を手がける。

大林宣彦氏
昭和13年、広島県生まれ。8ミリ作家として脚光を浴び、 東宝で「HOUSE」を監督。近作は「ねらわれた学園」。

里中満智子さん
昭和23年、大阪生まれ。「ビアの肖像」でデビュー。代表作に「アリエスの乙女たち」「あした輝く」がある。

最も因難な題材〈火〉と〈水〉

里中 小さい頃からマンガ映画といわれるものを見ていましたけれど、久しぶりにきちんと作られたものを見せていただいた、そこにまず心を奪われました。すぐ仕事のことを考えてしまうんですが、本当に大変だったろうな、というのがまず先にありますね。
大林 まったくそうですね。僕なんかいわゆる劇映画、つまり実写による映画を作ることの方が多いんですが、映画というのは基本的にアニミズム―動かないものが動く、いかに動くかという工夫が魅力を生み出すものですね。映画の基本的単位は一コマ二十四分の一秒ですが、アニメーション映画の楽しさはまさにその原点から出発しているジャンルですから、いかに一コマ一コマが魅力的に組み合わさっていくか、エンターテイメントの映画として、どういう性格をそこに持ち得るか、ということを期待するわけです。
 そのとおりですね。
大林 その技術論に関して、大変誠実な映画を久々に見せていただいたという興奮が見終って、まずありますね。
里中 職業柄かも知れませんが、まず最初にそういう技術的な面に驚かされますね。時間とお金がかかっただろうということも含めて……。
大林 ええ。観客代表ということで見れば、動きが滑らかであるとか色彩が美しいということになるんだけれど、我々は、あれは何枚描いたんだろうという視点で見てしまいますから、やっぱりとりあえずは、大変ご苦労さまでした。お疲れさまでした、ということですね。一時間四十八分ということは、枚数にするとどれくらいになるんですか。
波多 八万枚くらいです。気が遠くなりますね。
大林 それでその一コマに更に何枚も合成されたわけでしょう。
波多 そうですね。一秒間に二十四牧。 二十四コマということになっているんですが、一コマで大体三倍の撮影をしているわけです。二十四コマで撮ったのではなく、八十コマで撮っているところもあるんです。
大林 最近、アニメーションというとリミテッド(省略)ですね。極端なものになると、一秒六枚くらいのがあるでしょう。
 もっとひどくて、四枚ですよ。
大林 そういうものをを見なれている人たちには、大変スムーズな動きがまず魅力になると思うんです。
里中 動きがまったく違いますものね。
大林 で、お金の話は別にして、時間はどのくらいかかったんですか。
波多 企画・設定から始めると三年三ヶ月くらいですね。
 シナリオ作りの段階も含めて、ですね。大林監督がいわれたように、問題になるのは二十四コマが、ただ単に人間が話をし口が動くだけでなく、手も動いているし、胸も動いて、足も動いている。いろいろなところを動かしているとどうしてもそれだけのコマ数はかかっちゃうんですよ。
大林 それは当然のことだと思いますよ。
 さらに、一人だけ写っている場面はそれですむけど、犬がいて猫がいて人間がいると、それぞれが口も動き、まばたきもし、手も足も動く。そうすると、単純計算しても人間が二十四枚、犬が二十四枚、猫が二十四枚で透明感がなくなるけどその人間と犬と猫、バックの背景を四枚くらい重ねる。二十四枚の四倍ですね。三週間くらい旅行に行って帰ってきても、三十人のスタッフがまだ同じところを描いている。(笑)これはつらいことですよ。
大林 特に感心したのはテーマが水と火でしょう。映画にとって一番難しい素材なんですよ。特撮でも泣いちゃう。というのは、動きが二十四分の一秒以上に細かいんです。それに挑戦なさっているところが、技術的冒険として興味がありましたね。最初の波がドーンと出たところから、「やってる」って感じがダイナミックに伝わってきて素材選びのおもしろさがありました。
里中 火と水は、ほんとうに挑戦だと思いますね。
大林 エフェクト・アニメもうまくダブっていますね。
 今から六年ほど前にハリウッドにスタジオを造って、ディズニー・プロとかハンナ・バーベラ・プロの一流アニメーターを引き抜いて「星のオルフェウス」を作ったんです。そのとき波多君にもいってもらったんだけど、そこでの日本人アニメーターの体験、勉強が今回非常に役立っているということですよ。そういう意味では、日本人の手によって技術的水準ではまあまあのフルアニメーションが生まれたのではないか、と思うんです。
大林 それは率直に感じましたね。というのは、アニメーションは今とっても難しい時代になってきていると思うんです。昔、実写のように動くことが驚きだった時代がありますよね。ディズニーのころは、絵がまるで本物のように動くというのが魅力的だったけれど、やがてそれが刺激的でなくなる。そうすると、リミテッド・アニメのような省略したものであるとか、あるいは、狙った意味での稚拙、落書きっぽいものが魅力的であったりする時代でしょ。そうした時代にフル・アニメの世界に挑戦するということは、どんな素材を選んでやるのか、ということがまずたいへん大切です。その意味で火と水を選んで、その対立のなかで愛というテーマで描き、そこへエフェクト・アニメを入れていこうという試みは、時代に対して逆行したんじゃなくて、むしろ一歩前進した感がありますものね。

夢の工場で創られたフル・アニメ

里中 火と水の表現は、かなりご研究なさったんでしょうね。
波多 現象面をいろいろ調べるということではなく、火と水とは何なのか、ということですね。正反対のもの、対極にあると思われているものが本当はプラス・マイナスで一番結びつくのではないかというのがファースト・シーンの火と水なんです。
大林 それはもう、最初から「やっている、やっている」という感じでよく伝わりますよ。
波多 センスのいいアニメーターも大勢いるんですが、フル・アニメーションは送り描きというか、一枚一枚がどうなっていくのかが計算できないんです。動きを、デザインされていないところから始めるわけですから、新人のアニメーターが二年もたつとベテランになってしまう。そればっかり描いているから(笑)。
辻 アニメーターの世界は入れ変わりが激しいんですが、前にサンリオのアニメーションをやった人たちが、「シリウスの伝説」に参画したいと帰ってくるんですよ。とっても感激しましたね。だから、映画はいいものを作り続けて、いい監督がいれば、技術者たちがそこに集まってくるんですね。彼らにとっては、自分の技術を生かせることが一番うれしいんですよ。技術が売れる、売れないということも確かに大切なんだけど、作っている人たちが満足感を覚えるものをやっていくことが必要じゃないかと思いますね。
里中 アニメーション映画もいろいろなものがあっていいと思うんです。「シリウスの伝説」のようなテーマのものも、ラフであってもそれが味わいになっているものもあっていいと思う。ただ仕事となると会社の懐事情があるので、そのためにラフな作品が多くなっている現状は、ちょっとさみしいですね。
辻 もちろん、アニメーション映画はすべてがフル・アニメーションでなければいけないということはないと思うんですよ。そういう意味ではなくて、アニメーションにはこういうものもあるんだと分かってもらいたいというのが、今回の発想のひとつにあるんです。
里中 ええ、よく分かります。
 さっきから話に出ている動きだけではなく、色ですね。色の選択と塗り方、これも今回は相当苦心しています。 色彩を研究するセクションを設けて、色の配合をしたりしたんです。それから、普通だったらアニメーターと監督がいるんだけど、さらにエフェクトの水と火を担当する監督もおいたんです。動きと色と音楽、これを徹底的にやろう、ということですね。監督たちが考えたのは、普通の音楽じゃだめだろうから、フル・オーケストラを使おう、というわけでNHK交響楽団を使った。
里中 アニメーションにとってどれも必要不可欠な要素ですよね。
 ええ。普通の動きとエフェクトの動きがあって、カラーがあって、音楽とストーリーですね。つまり、この四つがフル・アニメーションとは何かという問いの答えとしてからみ合っているから…。 だから、すべてがフル・アニメーションでなくちゃいけないということではなく、もちろん、いろいろなものがなければいけないんだけど、ただ、アニメーションの中にはこういうアプローチあるということを忘れては困るな、という意味では勉強になったし、これからアニメーションを志す人たちのためにはよかったんじゃないか、ということなんです。
大林 プロデューサーとしての辻さんのそういった主張がうまく出ていると思いますよ。昔は、映画っていうのは夢の工場、ファクトリーで作られていたんですが、だんだんそうじゃなくなってきている中で、「シリウスの伝説」は久しぶりに“工場”で作られた映画、という感じがするんです。だんだん工場から逃げて、個人のデザイン机の上で作られた、個人のある種のセンスに頼る、そのかわりうんと省略して、ひとつのセンスで見せていく、アート的なアニメーションヘの試みがどんどん出てきて、工場で作るような仕掛けがだんだんなくなっちゃっている時代でしょ、今は。
里中 そういう意味では、「シリウスの伝説」のような味わいは年々なくなってきているんじゃないでしょうか。
大林 そうですね。だからこれは、久々に工場で作られた、個人のセンスだけに頼らない総体としてのアニメーションだという気がするんです。一本一本の線が、センスのために奉仕しているんじゃなくてむしろ持続と努力に奉仕している線でしょ。 実写の映画でいうと、俳優さ んの演技よりはむしろ体技。肉体を献身的に動かしてやっている感動が、「シリウスの伝説」には感じられたんです。その意味で、大変ご苦労さま、と。

艶やかな少年と少女のラブ・シーン

里中 私、見ていて楽しかったのは、それぞれのキャラクターが艶っぽかったことなんです。シリウスとマルタのキス・シーンがほんとに柔らかい感じで、見ていてほほえましくなってくる(笑)。気持がなごんでくるというか。期待してなかったんですよ、そういう面では。だからよけいあのシーンが気に入って、ああいい感じだな、柔らかそうだなというの伝わってきて…。 あれを見るとキスしたくなる雰囲気になるでしょ。子供たちが見たときどんな反応を示すか、楽しみなんです。
大林 あの演技指導はみごとですね(笑)。あのういういしさ、特にシリウスがマルタの胸に抱きついてみたりする辺りね…。
 けっこうおっぱいを触っているんじゃないかな。(笑)
里中 視線もそうみたいですね。
大林 ちょっとした恥じらいの表情とか、なかなかよかったですよ。
里中 積極的に女の子のほうから誘ったりして、辻さんの作品としては珍しいですね。
 ものを書いたりしても、抱き合ったなんていうと、かなり抵抗があることはあるんですよ。でもそれでは不自然だし、やっぱり愛にはそういうものがなきゃならないだろうということで入れたんです。それを監督がうまく表現したんじゃないですかね。いやらしくなく、自然でいい表情になっている。
大林 特にフル・アニメーションの映画なら、実写では表現できないほどのデリケートな、エモーショナルなものがどこに出ているかに期待するわけですよ。恋への憧れ、異性への好奇心、そういうナイーブな情感がひょいとあそこに垣間見えて、これは実写でもなかなかでないぞ、という感動がありましたね。
波多 作り手としては、あのシーンをそう見ていただければもう何もいうことはありませんね(笑)。
 僕には、アニメーションでは、男女間の愛の表現とか表情はだめだという思いがあったんですよ。だから、愛を告白したり羞恥の表現はライブアクションだと思っていたから、今の大林監督の発言には大変励まされるものがありますね。(笑)監督の力量じゃないかと思うけれど...。
大林 演技指導のおみごとさですよ。演技指導といいますのは、実写映画の場合でもコマ数なんですね。いかにコマ数を計り得るかでしか、演技は出てこないんですね、映画の演技は。その意味で、完璧にコマ数を計り得るアニメーションは本当はエモーションが一番出なけれならないはずなんです。ところが、現実にそれがなかなか出てこないのは、たぶん登場人物の性格設定をパターンでなぞりすぎているからなんですよ。今までのアニメーションでは、子供がいい子になりすぎちゃったりね。この映画では女の子が積極的だとおっしゃったけど、リア リティがあるんですよね。アニメーションの中に閉じこもってはいない、人間的な衝動というんでしょうか。それが感じられるところが随所にある。
里中 そうですね。女の子もただいい子ちゃんじゃなくて、けっこう我がままなんですよね。シリウスに対して自分の要求をするでしょ。それに対して男の子は恋に狂っていますから一生懸命になる。アレッという感じがするんですが、そこら辺の恋人同士の感じが、もしかすると、演出家の実生活が出ているのかも知れない。(笑)
大林 いわゆる存在感とか生活感とかと二言目には言いたがるひとたちは、この「シリウスの伝説」を見ればいいんですよ。アニメーション映画は、「よくできました、お上手でした、けっこうでございます」と、お茶のお手前みたいなことで終っちゃうのが多いんですが、そこを越えていますよね、この主人公たちは。生々しい、温かさというのか。柔らかさとおっしゃったけれど、質感がね…。
波多 ただ、通俗的に走りすぎるかどうか、というところがひとつの恐れでしたね。セリフにしても行動にしても、逆に上をなぞりすぎている、あるいはそれを押しつけがましくやっているんじゃないかという気が…。やっぱりフィルムになって流れてみないと、作っている方は正直よく分からないんですね。
 (波多)監督と長期間、話し合ったのはラストの愛の在りようだった。マルタのシリウスに対する反応ですね。最後にシリウスが訪ねてきたとき素直に抱きついていくという意見と、今頃来たって遅いとなじるという意見なんです。ただ僕としては、死を覚悟して会いに来たシリウスをなじったことの後悔が罪の意識になっていくところをどうしても出したかったんですね。火の国を守るために女王にならなければいけない成長したマルタの、異性との愛の板ばさみ、そこに出るであろう女の性(さが)が絵で表現できたかどうか、ということですね。それができていなければ、この映画は普通の映画になっちゃうと思っているんです。主役の顔を作るのに大変もめましてね。日本人とアメリカ人の好みの顔は当然違うんですが、今回の映画の顔はアメリカ人が見ると普通の顔で、日本人にはピーター・パン的に見えるんです。しかし、日本人だけでなく、アメリカ人やヨーロッパ人にも見てもらいたいという気持ちがあったので、あえて国際的普遍性があるものに決めたんです。僕が口を出したのは、それとお金の問題だけど、あとは監督に任せたんです。だからゼネラル・プロデューサーはクリエイティブじゃないですね。
大林 映画は、映画ができる環境がないと絶対に駄目ですからね。畑がないと野菜ができないことと同じで、環境を作るのがプロデューサーの一番の仕事だし、環境がないと夢ばかり育って実際に実にならない。おまけに、放っておけば環境はなくなっちゃう時代ですから。サンリオが作った映画の環境のひとつの信用と匂いができてきたと思いますよ。ただそれ故に、「シリウスの伝説」が、いい子ちゃんの教条的な映画じゃないかと感じる人がいたら、「そうじゃないぞ」といっておきたいですね。
 サンリオ・アニメーションというと子供が見にくるんだけど、本当をいえば中学生以上、大人に見てもらいたいアニメーションなんです、この「シリウスの伝説」は。子供が見てはいけないということではないんですが…。
里中 子供でも、女の子は分かるんじゃないですか。五年生くらいになるともう大人のつもりでいますから、私もそうだったし…。(笑)
大林 よくできた大人の映画というのは、子供に一番よく分かるんですよね。よくできてないから大人にしか分からなくなるだけでね。僕らは昔、よくできた大人の映画を子供のころ見て、分かり方は違うかもしれないけど、基本的には分かって見ていたんです。だから、僕はこれをアニメーション映画といういい方をするよりは、一本の映画として、工場で作られたころのいいエンターテインメント映画の骨格があって、ハリウッド映画のよき時代のワクワクした弾みのある映画、という感触を持ちましたね。アニメーションでもいい子ちゃんだけが出てくる、お行儀がいいだけの映画じゃないよ、と思いました。
里中 主人公たちは決していい子ちゃんじゃないですよ。親のいうことは聞かないし、好きになったらそのことしか考えない。そこから永遠のものにつながっていくわけですが、やっぱり社会を乱すという意味ではいい子ちゃんじゃないですものね。それをいかにすばらしく見せるかが脚本の腕なんです。
大林 最後に「愛とは信ずることである」というセリフが出て来ても、説得力を持つんですね。へたすれば、「ちょっと、そんなこといわないで下さいよ」と照れ臭さと胡散臭ささえ感じるセリフですが、それがストンと出たのは、辻さんがおっしゃった女の子の最後の押したり引いたりの戸惑いというのか、逡巡というのがエゴイズムとからみ合いながら、やがて浄化されていく。ドラマの骨格がしっかりしているから、そこで納得しちゃう。今さら説得されるセリフじゃないけど、納得させられる気持ちよさがある。
 プロデューサーにとっても、監督にとっても、あのセリフは本当に頭の痛いところだったんです、正直いって。思わせぶりなセリフを最後にいわせていいのかどうか…。でも、「戦争と平和」 などでも、かなりそれに近いと思われるセリフがありますね。その辺が大変難しい。
大林 ああいうセリフを堂々といえるのは、逆に自信がなくてはいえないわけですよ。よくできた映画というのは、それ自身がひとつの神話的存在なんです。神話っていうことは、名セリフをぬけぬけということが許される。それがあるからこそ神話になるんですね。だから、「戦争と平和」とか、限られた映画には必ず、気恥ずかしいような名セリフがあるんです。何かドーンと納得できるような。
里中 きっとみんな、現実にはいわないけれど、心の中では、いっているんじゃないかと思いますよ。現実生活ではそんなこと口にすると誰も相手にしてくれなくなるし、自分も気恥ずかしいし。映画が夢でなくなってから、そういうセリフも少なくなりましたよね。どろくささがだんだん抜けてきて、いいのか悪いのか、感動したのかしないのか、それもいえないような映画が多くなったような気がするんです。
 その通りですね。
里中 映画というのは、部屋の中でひとりで見るものではないし、お客さんにいっぱい入ってもらって一人でも多くの人に見てもらって、そうすると自分は恥ずかしくないぞ、といい意味で開き直ることが必要だと思うんです。映画館を出たあと、ああ、恋人が欲しいな、という気になるのはいいんじゃないですか。
辻 ええ。この映画は映画館で絶対見てほしい。というのも、すべての構図がスクリーンの大きさを計算の上で成立しているんです。つまり、足の爪先から頭の上まで見せて、バックの動きもそれに合わせてある。そういう構図なので、テレビのフレームで見たら何もかも駄目になっちゃうんですよ。

アニメーターたちの三年間の苦労

波多 ブラック・マジックじゃないけど、暗い場所で幻想的な物語を見て、外へ出たら太陽が輝いていた、自分はいったいどこへ行ってきたのかなという感じを持ったら、演出家としてはいうことがないんです。
大林 今日、試写室から出てきて空を見ましてね。ああ、世の中は昼間だなという感じがした(笑)。映画館を出たときの感動はそれなんですね。違う世界に自分はいたな、どこまで現実から遠く離れていたのかという実感が、映画を見て外に出たときの感動につながるんです。映画館の中と、外に出たときの現実が同じものではつまらんでしょう。
里中 細かい動きは、ブラウン管の線ではどうしてもブレちゃうし、ボケるんじゃないですか。バックの小さな魚たちがおびえて震えているのが分からないと思うんです。それと、色がね。大胆に深くて溶け込みそうな色を使っているのでスクリーンでしか見られない色じゃないですか。テレビだと真っ黒になって分からないと思うんです。
大林 かなり、ローキーな感じですね。
辻 テレビのアニメーションが嫌いだというんじゃないんですよ。テレビはテレビ用に作りますが、「シリウスの伝説」 は違う作り方をしたということなんです。例えば、透明の羽をスプレーで吹いたブラシを全体の三分の二ぐらい使っているんですが、これは本当に劇場で見てほしい技術のひとつで、外国のもの、例えば「指輪物語」などには絶対に負けないと思いますよ。
波多 作品的な評価は別にして、ディズニーが嫌がっていた水と火とエアブラシの三つを、最後までやり遂げたという面をアニメ・ファンの方々には見ていただきたいですね。
辻 それと同時に、僕らがアメリカで作っていたとき、日本人のアニメーターは駄目だといわれていたんですが、それが一流のアニメーターと仕事をして覚え、独自なものを開発しつつあるということが確実にありますね。若いアニメーターたちとっても、これはとてもプラスになるんじゃないでしょうか。
里中 とてもめんどうなんですよね、ブラシは。私は初歩的な経験しかありませんけど、昔、ブラシに使うあのガスは体に悪かったんです。
波多  「シリウスの伝説」の人たちもゼンソクになると心配しながらやっていました。
里中 そうでしょうね。昔はちょっとやると頭が痛くなってしまったけれど、今は大丈夫のようですよ。
波多 むしろ、絵の具の粉がとぶでしよ。その方が心配だったんです。いずれにしてもブラシというのは神経をすりへらす作業ですよね。傷がつきやすいし。
里中 そのせいだと思うんですが、奥行き、幻想的な感じがよく出ていた。
大林 そういった技術的な面も含めてですが物語の構成によく神経が配られていますね。女の子が火の国の女王になるときは、少女から女の体に変わっていきますでしょ。そこで彼女自身の神話が終わった。少女時代がひとつの神話であるとすれば、我々のリアルな世界へ感情が移っちゃうんですね。それでまた、もう一度神話の世界に帰っていく。額縁から一度出て、また入るということで、この映画の持っている神話性を再確認するおもしろさがあるんです。
辻 そこが苦労したところですね。
大林 ドラマの骨格がはっきりしたところだと思いますね。少女から女の体に変わるシーンが魅力的であるだけに、もう通り過ぎてしまった時間のいとおしさが、前の体のいとおしさと、ダブル・イメージで出てくるでしょ。その逡巡の様がナイーブなので、そこに虚構のリアリティとでもいうべきものが生まれ、感動を呼ぶんです。
 三年三ヶ月という期間の間、「もう今度は短編をやらして下さいよ」、という声が聞こえていたんですよ。「そうだよな、こんな大変なことを、同じようなことを、くたびれるもの」と思っていたんだけれど、この仕事が終わりに近づくと、「また長編をやりたい」という声が挙がるんですね。こういうスタッフは素晴らしいと思いますよ。長編でくたびれたから今度は短編だといっていたスタッフが、また長編に挑んでみたいといってくれた。波多君なんて、三年三ヵ月は人生にとって短いというんですよ。アニメーションの簡単なやつは、半年で完全にでき上がるでしょ。それなのに十年で三本しかできないものに、また自分の青春を三年間、賭けられるということは、本当に素晴らしいと思いますよ。

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