机上の街
私の部屋の机は、割と汚い。
机の大きさに対して、モノが多すぎるのだ。
大体右端には積読がいくつも積み積みしてあって、階層ごとに角度が少しずつズレた、前衛的な建築物のようになっている。
その奥にはスマホの充電器やエアコンのリモコンが微弱な電波を発する化学施設のようにカクカクと配置され、その右隣には白いふわふわのカバーに包まれたティッシュが雪山のように鎮座する。
ティッシュ山の左側の花瓶には大抵お花が生けてあり、まるで自然信仰な造形のタワーのようだ。
そのまた隣にはペン立てが高層ビルのように三つほど立ち並び、アウトプット用のメモ帳や、辞書や、推敲中の原稿などが狭苦しく連なる。
このように基本的にごちゃごちゃしている机だが、私は椅子に座ってこの机に向かい、まるで一つの街をめぐるみたいにそれらを眺めるのが結構好きだ。
積読を崩すならば何階の本へ行こうか。お花タワーの点検をしようか。何かを書くならどのペンと待ち合わせしようか。
そんなことを考えてはわくわくしている(無論その分作業は進まない)。
一般的に見れば私の机は汚いけれど、私はその汚さを割と大事にしている。それは私の思考に合わせた密度で構成された、私専用の街みたいなものだからだ。
机上の街を歩いていると思わぬ発見があったり、パンを咥えた遅刻しそうな学生たちが偶然鉢合わせてしまうときの輝きのような、瞬間的な出会いがあったりする。
そういう未知の繋がりを机の上でできるのが、私はとても楽しい。
それに、実は机だけじゃない。本棚やタンス、収納棚の中でさえも、そういう私だけの「街」は構成されていて、私はその中をよく巡っている。
最近はミニマリストの人が最低限のもので暮らす美しさを説いているのをよく見かける。
私は全然ミニマムじゃないけれど、そういう思想には少しだけ共通する部分を感じる。
結局は、自分の思考が落ち着く密度の街をみんな自分の部屋に作っているだけで、私はそれがたまたまごちゃごちゃしているだけだと思う。
いろんな要素から多種多様な閃きをする人もいれば、シンプルな思考から複雑な要素を導きだす人もいるだろう。
私の思考がもっとスッキリしたら、机上の街も砂漠のように豊かな茶色でシンと静まり変えるのかもしれない。
そんなことを思いつつ、今日も私は机の掃除をサボるのだった。