幼い頃から母から言われて来た言葉 あなたは補佐役に向いているから縁の下の力持ちでいるほうが良い リーダーではなく補佐役を目指しなさい 目立たずいつも控えめでいること いざ成長してみたら自分は個性の塊のような人間で、どんどん周囲からはみ出していった 学生時代から30代半ばまでずっと目標としなければいけないと言われていた自分と本来の自分の姿のギャップに悩んでいた 世間一般の常識がないわけでも協調性がないわけでもない でも思考がどこか人と違うみたいで妙に目立ってしまう
片想いで終わったとき 好きな人と別れたとき 失恋の傷はどうやって癒しますか? 私は好きな人に想いを告げられずに終わらせた恋がありました 失恋してもしなくても相手に告白しなかったのはこれが人生で初めてだったかも 好きという言葉を口にしたら全てが壊れてしまいそうで言えなかった この先もきっと顔を合わせることがある人だし 彼がとても幸せそうだったから 心から祝福したいと思った 自分がこれから幸せになるためにも ネガティブな感情を手放したかった 私の破れた恋の
15歳のとき。 当時友達の紹介で知り合った19歳の専門学生の彼と遠距離恋愛をしていました。 私は仙台、彼は山形の寮で生活していたので頻繁に会うことはできませんでした。 ケータイもまだ皆が持っていない時代だったので、電話をかけるときは彼のいる寮にかけなければいけなかったのですが、時間制限もあってタイミング悪く他の人が使っていると話し中になっていて電話することもできない日もありました。 だから私はよく彼に手紙を書いて送っていました。 内容はもう忘れてしまいましたが、会い
この人素敵だなぁと思うことはたくさんある 見た目や仕草が美しいとか 周りへの気遣いや思いやりに満ちている人とか 自分にないものを持っている人に対して素直にうらやましいとかこうなりたいという感情はあるけど、嫉妬心を持つようなことはない しかし世の中には嫉妬心から相手に対して強い嫌悪感をもつ人もいる 私は特に美人でも素敵でもないし、お金持ちでもないし、特別人付き合いが上手い訳でもない 一体私の何がうらやましいのか謎だけど 10年に1度くらいそんな強い感情を同性からス
アロマテラピーとの運命の出逢いは2017年の春🌸 生活の木表参道のアロマテラピーアドバイザー養成講座を受講した事がきっかけです😊 このとき担当だった講師の先生が生活の木表参道校のAEAJ認定アロマテラピーインストラクター早矢仕幸智子先生 幸智子先生はご自身でアロマテラピーサロンを経営しながらアロマ講師のお仕事をされています🌼 アロマテラピーの基本や植物の歴史、様々な精油のエピソードなど 幸智子先生のまるで世界中を旅しているようなお話の数々に心がときめきました! 私
月がキレイですね🌕️ 夏目漱石が生んだ愛の告白の言葉 私が最後に愛の告白をされたのはいつのことだろう?笑 彼氏はだいぶ前からいないけど 好きな人はいた でもその恋は彼に想いを告げることなく終わった 彼が選んだのは私じゃない別の人 少年のようなキラキラとした笑顔が眩しい彼への気持ちは、恋ではなくて自分にないものへの憧れだったのかもしれない もしも彼が私に振り向いたとしても目指している未来があまりに違い過ぎて、きっと上手くはいかなかったはず 男女の仲になってしま
9月11日は私の44歳の誕生日🎂 今年はみずほ台のBarDRIFTERSさんでお祝いしてもらったり、大崎オーソルの元ハンドボール選手森淳さんに会いに行きました SNSでも友人やフォロワーさんなどたくさんの方にお祝いのメッセージをいただいて、人生で1番華やかで素晴らしい1日でした 私は自己肯定感がとても低い人間なので、自分が思っているよりも人に愛してもらっていたんだなぁとびっくりしました 世界はいろいろな形の愛にあふれてるんですね 本当に嬉しかった ありがとうござい
時々アロマちゃんはどんな人がタイプなの?と聞かれて困る もともと恋多きタイプではないし、ちょっと前の恋愛は言い寄られてなんとなく だったので、趣味も全然合わないし自分のやりたい事を相手に求めたりもしなかった ただ一緒にいるだけで相手に恋してなかったんだろうなぁ もしも運命の人がいるのなら💖 理想のタイプを考えてみる ①優しい人 彼女にだけ優しいだけじゃダメ 家族や友人その他周りの人もちゃんと大切にできる人 ②笑顔が良い人 無愛想な人は苦手 よく笑う人が好き ③
新小岩オムライス屋さんバンズキッチンのばんちゃんと出会ったのは今から10年前 当時流行っていた野菜ソムリエの資格取得講座だった 私達が受講していたのはジュニア野菜ソムリエという野菜ソムリエの初級のもので、渋谷の教室で10名くらい生徒さんがいる中の1人が彼 私の斜め前の席に座っていて、坊主ヘアのばんちゃんが男性の講師の先生に「あれ?なんか俺と同じ頭の奴がいるな〜」とイジられていた!笑 この人面白そうだなぁとなんだか気になって、休憩時間に「さっき先生にめっちゃイジられてま
新座の家から車で祖母の家の石材屋へ通勤する日々が始まった 正確には石材会社の社長は母の2歳下の弟 祖母の家の2階には叔父の家族が住んでいた 平日はそんなに忙しくなかったけど、土日祝・お盆・お彼岸・お正月が繁盛期なので誰とも休みが合わなかった この頃友人は仙台にしかいなかったので、誰かと遊ぶ機会は20代後半までほとんどなく過ごしていたと思う 年に1回くらい父親に見つからないようにこっそり仙台に帰って、高校時代の友人と会うくらいしか同年代と接する事はなかった 従兄弟や
石材屋を経営していた母方の祖父は私が小学6年生のときにがんで亡くなった まだ60代前半だった 祖父との思い出は私が幼稚園年中のとき 夏休みで帰省中に熱を出して母の運転する自転車の後ろに乗って病院に連れて行ってもらった その帰り、熱があってぼんやりしていたせいか自転車の後部車輪に足を挟んでしまい左足を骨折した 履いていた当時流行っていたキャラクターのシューズが血で真っ赤に染まったのだけは覚えている 再び病院に行った後、祖母の家に帰ったら2階の寝室まで祖父が抱っこして
上京してまず初めに移り住んだのは私が生まれた小平の祖母の家 個室はなく母と1階の座敷で寝泊まりしていた そこからすぐに埼玉県新座市のマンションを借りた 陽当り良好で新築のキレイなマンションだった 最寄り駅は西武池袋線の東久留米 近くにはお掘りがあって鯉が泳いでいた 駅からは少し遠かったけど、当時は車があったので特に不便はなかった 仕事は祖母の石材屋でアルバイト 朝7時から夕方5時までの勤務 休みは不定休で基本的にはほとんどなかったと思う 仙台の友達と離れる
父と離れて暮らして3年が過ぎた頃 兄は結婚をして家を出た その後、私は母と2人暮らしをしていた 何とか平穏に過ごしていたのだけれど、とうとう父に住んでいる場所がバレる日が来た 母と離婚をしてから1度も顔を合わせる事もなかったのに どうやら私の乗っている車を尾行していたらしい アパートから外に出たとき、なんと道端に父親が立っていた 私は驚いてアパートの部屋に戻って扉を閉め鍵をかけた 何度かチャイムを鳴らされたけど、絶対に開ける訳にはいかない ストーカーに家を突
母の実家は小平霊園の石材屋 石材屋の仕事はお墓の工事から埋葬、管理、手入れ、埋葬や法事の際の飲食の会場の提供、お花やお線香の販売など 曾祖父からの家業なので祖父で2代目の会社だった 祖父母が結婚したときに小平駅北口の小平霊園通りに自宅兼店舗を構えた 私の生まれた家でもあるので、初めて嗅いだ香りは日本香堂の毎日香の香りだったりする!笑 幼い頃からお参りに来たお客様にお茶を出したり、お花やお線香を売ったりよく店の手伝いをしていた 繁盛期はお盆お彼岸、お正月が最も忙しく
どうせお嫁にいくんだから女の子に学歴はいらない 母は祖母から教えられ、私も母からそう言われ育ってきた とても古い教育方針 男女平等が当たり前の現代ならまったくの時代錯誤 とんでもなく男女差別甚だしい考え方だ 祖父母はどちらも実家が石材屋を営んでいた 学歴がなくとも家業を継げば良いから必要ないと考えていて、子どもには学校の勉強なんてできなくてもいいとよく言っていた 祖母は高校中退で19歳で祖父の元に嫁いだから、学歴コンプレックスもあったのかもしれないなぁと思ったこ
両親の離婚のあとは母と兄と仙台の宮城野区に引っ越した 3DKの小さなアパート それでもちゃんと帰れて夜も眠れる家があるのは嬉しかった 喧嘩する両親を目にすることもなく、父に怒りを覚えることもない 相変わらず母の仕事は東京だったので、さらに不在がちに 兄もほとんど家にはいなかったため、私はぽつんと1人家に残されてしまったので東京の祖母の石材屋でバイトする事が多くなった 20歳にして第二の人生を歩みだしたけど、将来の夢や希望はまだ見つからない