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浅間香織さんの小説について

 こんにちは、人見御供です。
 タイトルにある浅間香織さんとは、次回の文学フリマ東京39で私が『内向型と外向型の哲学』という論考を寄稿する予定の文芸誌『ホーレン』の代表の方のことです。
 10/14(月)に、「文学イベント東京Vol.3」というイベントに参加されるそうなので、今回は浅間香織さんの小説に対する私の感想を書かせていただきます。私もお手伝いで参加します。
 ちなみに、今回のイベントでは前回の文学フリマ東京38で出品された『カラマーゾフの姪:ガチョウたち』に加え、新たに処女作である『建設的に見えかねない練習曲』も出品されるみたいです。

感想

 浅間香織さんの小説を読んで、まず私が感じるのは、情報量の多さです。『願望と献花』第1部1章の『堤防と風の対岸』(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=19528945)のある箇所では、泥水のことを「腐敗した有機物が溶けたもの」と表現し、泥水をわずかに含んだ空気を吸い込むことが、人体の自律神経系にどのような影響を与えるのか、そして泥水から連想される環境の変転や、それに対比して、自然科学の発見により変化した人間の認識観、またそれについての「彼女」との対話の記憶などが続けて書かれています。人体の仕組みから社会学や歴史学、数学、自然科学、果ては個人の生活一般に至るまでの、膨大な情報が詰まっています。そしてこれらは泥水ただ一つの概念から出発している思考運動なのです。
 私はこの方が、目で見、耳で聞き、直接手で触れ、そのように知覚したものをまた頭の中でどう処理しているのか、その過程がどれほどの情報を生み出しているのか、想像することすらできません。ましてや、その知覚されるインプット量がどれほどのものになっているのかは、私には知る余地もありません。それほどの情報量なのです。
 そのような常人ならざる認識観を垣間見させることを可能にしているのが、一部の小説で用いられている「意識の流れ」的文体です。これは『堤防と風の対岸』に、特によく表れています。
 「意識の流れ」とは、十九世紀末にウィリアム・ジェイムズが提唱した文学批評の用語ですが、文字通り、意識=頭で考えていること、思考それ自体の流動的な過程を、登場人物の一思考として言語化する文学作品に名付けられています。
 浅間香織さんの小説では、登場人物の一つの動作や意思決定がどうして行われたのかが細かく説明され、この意味では登場人物の思考過程を言語化する「意識の流れ」的文体と言えるでしょう。
 しかし従来の語法を参照するなら、作者自身の説明の通り、『堤防と風の対岸』にのみこの用語を当てはめるのが適当に思われるので、それ以外の文体にはもっと別の言葉を選択するべきかもしれません。
 伝統的に用いられる「意識の流れ」とはもっと混沌としたものであり、浅間香織さんの小説に多く見られる「数学的な美しさ」とはかけ離れたものであります。登場人物の目線の位置を縦や横にずらしつつ、また手の位置や体勢を少し変えたりすることで、微妙な感情の変化を暗示させる、またはそれらの所作一つ一つが時系列順に丁寧に並べられているさまなどからは、十九世紀の心理主義や自然主義が想起されます。

 規則正しい美しさ、つまりは「数学的な美しさ」と私が述べたところのものをいっそう引き立たせているのは、自然科学や数学、情報理論、または文芸批評、音楽理論といったものを積極的に小説に取り入れていく姿勢にあります。
 これらを文体として使いこなすには、数多の学説をインプットし、小説に使用できるかどうかの検証を繰り返し、言語化した際に統一感が崩れないための推敲を何度も重ねる必要があります。このような過程には相当な労力がかかっていることが想像されます。われわれはそのようにして出来上がった氷の像のように冷たく美しい繊細な芸術作品に、ただ圧倒されることしかできません。
 例えば、『建設的に見えかねない練習曲』(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=20389593)では音楽と数学と物理学が一緒に語られる場面があります。
 物語は天才ピアニストの女の子と難しげな物理学の論文を読んでいる男の子、そして駆け出しで数学を学んでいる一年年下の女の子たちの間の対話によって進行していきます。
 音楽の奏でる音はすべて物理現象であり、つまり数式に還元することができることが説明されます。弦の長さによって変化するオクターブ数の法則性を対数関数で表し、また音律にはピタゴラス律のように純粋に数学的な比に則って定められたものも存在することが述べられます。そして終盤ではラマヌジャンの自然数の総和の解にまで話が及びます。
 このような学問的な文章は、ただ教養的と感じられる以上に、読む者に調和的な美とは何かを教えてくれるように思われます。学問的でありながら小説に馴染むように、そして統一感を損なわない文章にするためには相当な技巧が必要です。学問を作中に自然に取り入れることに成功しているという点で、私はこの小説をSFと読むこともできると考えます。

 『カラマーゾフの姪:ガチョウたち』(https://note.com/kaori_asama/n/n3f5b46695b24)は、また少し趣が異なります。ドストエフスキーの傑作小説を冠したこの小説は、同じようにドストエフスキーの手法を踏襲しつつ、より現代的な問題をテーマにした哲学談義を行う大学生たちの物語となっています。
 加速主義やエントロピー、情報理論あるいはロシア宇宙主義といった硬い内容の、知的好奇心をそそられる議論となっていながら、物語の序章にふさわしい、わくわくするような話の展開の仕方だったり、感情の機微な変化を描いたりするさまからは、変わらず文学的な美しさを感じ取ることができます。

 しかし、浅間香織さんの作品の良さはこれに収まりません。私が特別興味深く感じるのは、言葉では表現できないものへのこだわりと、自然との向き合い方にあります。
 言葉では表現できないもののことを、作中では超越論、高次のもの、あるいはただ鉤括弧付きで「何か」と表現しています。『建設的に見えかねない練習曲』では、音楽が所持しているもののうちで、ただの物理現象に(すなわち単純な数式に)還元できない「高次の何か」があるという意味で用いられています。その前章である『二分の二拍子の前奏曲』ではトーマス・マンの『ヴェニスに死す』についての感想の対話のうちに、従来の社会規範や倫理を超越し、仮象を求める衝動としての芸術家的精神として、超越論という言葉が登場します。『堤防と風の対岸』では、主人公の混沌とした意識の中でどうしても言語化できない「何か」、しかし重要な意味を持っているように思われる思考の空隙として深い印象を刻みつけます。
 私はこの「何か」について、『内向型と外向型の哲学』で言及したつもりですが、このような言語化できない領域は他の文章に見られる規則的数学的な美しさとは対照的に、言語の到達不可能な地点と、人間の意識の触れてはならない神聖な領域という側面をわれわれに認識させます。『建設的に見えかねない練習曲』の終盤で登場する亡霊も、この領域に位置すると考えられます。

 今までに挙げた作品はやがて数式でない、つまり抽象的でないもう一つの対象へと帰着します。それは自然です。自然は抽象化される前の段階にある、具象的な対象です。自然科学はいつも自然の観察から出発します。現代人は携帯やパソコンなどのヴァーチャルな世界を通した抽象的な生活に慣れ親しんでおり、具象的な生活から遠ざかる傾向にあります。抽象的な生活で疲弊した自律神経系を癒すために『建設的に見えかねない練習曲』の川釣りがあり、また『カラマーゾフの姪:ガチョウたち』で言われるロシア農民的な「泥臭い生活」があります。これはすでに現代人が忘却してしまった地点、思想や法則といった抽象物を生み出す諸科学が「いつもここから」出発するというあの最初の地点を暗示させるものなのです。

 この地点は、私が浅間香織さんの小説に感じた認識という観点に繋がっているように思われます。はじめに観察する対象としての自然があり、それを頭の中で処理し、言表するという一連の行為の成果としての作品は、観察される自然と切っても切り離せない関係にあります。その自然の中にあって数式に抽象化されない超越論的な「何か」の表現の試みを諦めないこと、また抽象化の起源に立ち戻るために自然ともう一度向き合うこと。インターネットという単純化された情報に身を浸し続ける現代人に逆らって、根本的な認識の見直しを図るのが、浅間香織さんの小説だと私は考えます。

 最後に浅間香織さんのSNSの各種リンクと、各作品へのリンクを載せておきます。

■ SNS
・X
https://x.com/KaoriAsama
・note
https://note.com/kaori_asama/

■ 小説
『薄暗い鍵盤組曲(Eine düstre Klaviersuite)』

『堤防と風の対岸』

『カラマーゾフの姪:ガチョウたち』

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