今、この時代に"心"が必要としていることとは?
今、この時代に"心"が必要としていることとは?
この本を読んで、そんな問いが湧いてきた。
(余談だが、山竹 伸二さんは現象学や心理学に精通している心理学研究家なのだが、山竹さんの本からはたくさんのインスピレーションをいただいており、大好きな研究者の一人だ。ぜひ他の本も手に取って読んでほしい。)
「行為承認」過多な現代ー欠落している「存在の承認」
SNSの普及により、加工文化、いいね文化が生まれ、「本当の自分を理解してもらえていない」という嘆きが聞こえてくることがある。
「本当の自分は誰も理解してくれていない」
山竹さんの承認不安の本で、
「承認」は「行為の承認」と「存在の承認」の2つに分けて考えることができると書いてあった。
承認の不安として、行為の承認は、SNSなどで埋めることがきっとできている一方で、「存在の承認」は欠落し続けているようにも見える。
自由で多様すぎる現代ー「自分らしさという拠り所のなさ」
近代化の流れで、人は自由を手に入れた。
絶対的な価値観が崩壊し、個人として選択が可能になってきた、という大きな流れはいろんなところでも語られている確かにある流れだ。
人口減少の中、多様性がうたわれ、あらゆる人たちの社会参画が可能になり、
デジタル化の影響によって、キャリア流動性も高まり、職業や働き方が自由になった。
そんな昨今、流行語大賞になりつつある言葉の一つが「自分らしさ」だ。
「自由(〜したい)への欲望」と「承認(〜すべき)の欲望」の間には、「葛藤」がある。
人は社会の中で生きている限り、社会のルールがあり、「〜すべき」ということは必ず存在する。
多様で自由な生き方ができる現代においても、人は繋がりの中で生きる生き物である。
(そのつながりは、家族かもしれないし、学校かもしれないし、地域コミュニティかもしれないし、オンラインのコミュニティかもしれない)
どこかの共同体の中で「承認(帰属)を欲望」し、自由であることと承認されることの間で葛藤する。
「自由への欲望」と「承認不安」の間にある、この「葛藤」のところに「自分らしさ」は存在しているのだと思う。
最近だと、「自分らしさは呪いだ」という人や「自分らしさなんてない」という人も現れた。
その気持ちもわかる。この葛藤の間にある「自分らしさ」には拠り所がないのだ。
拠り所がないから、怖い。
自分が捉えている「自分らしさ」や「自分らしい生き方」はもしかしたら間違っているかもしれないと怯える。
そんな葛藤の間に "心"は顔をだす。
「今、この時代に心が必要としていること」とはなんだろう?
この問いは、まだ結論はなく、私の中にふわふわと漂っている。