"ケア"が切り出された時代に、コーチングは誕生した?
最近宗教についての研究を長年行っていた人と対話をする機会を頂いた。
その際、「これまでの歴史の中でずっと別の形で行われていたことが、たまたま今の時代、コーチングという形で表現されているだけなのではないか?」という視点をいただいた。
例えは、「傷ついた人が、自ら救われた”何か”で人を癒すという行為」をとっても、宗教の歴史から見ると極々自然に何千年、何百年と行われていたことで、とても人間的な営みであることが歴史を見るとわかる。
また、村などのコミュニティの中で、そして家族というコミュニティーの中で、
誰かにケアをしてもらうことこと、そしてケアを誰かにしたという行為は、人の「生きること」を支えてきたともとることができる。
しかし、近代化が進む中、人と人とのつながりの中で自然と行われていた”ケア”という営みが、市場に切り出されていってしまった。
家族でケアしあっていた時代は、「老人ホーム」は必要なかったし、
コミュニティや大家族で子供をみんなで育てられた時代は、ベビーシッターも必要なかった。
個人の自由と引き換えに差し出された自己責任論と、つながりが薄れていく中で「ケア」は市場に切り出されざるを得なかった。
自己責任のなかで、「私は何者か?」「私はどう生きるか?」「私にとって幸せとは何か?」という答えのない問いの間に立つ必要性が生まれ、
情報に惑わされやすい・振り回されやすい情報社会の中で、「成長」の支えが必要になり、
不確実性の高い不安定な時代を生きるなかで直面する「こころ」と向き合うことを支える(ケアする)存在の重要性は増していったが、つながりが希薄化される中で、ケアはサービス化せざるを得なかった。(またはサービス化されることがとても自然な時代の流れだったとも言える)
そして、「コーチング」という名前が付いてサービスとして広がっていった。
そんなふうにコーチングを捉えることもできるのかもしれない。
そうすると気になるのは、「切り出されたケア」についてだ。
昔のように繋がりの中でケアし合える関係性が育まれれば良いのに?という心の声が聞こえてくるが、「古き良き時代に戻る」ことはできない。
今この時代にフィットしている「ケアのあり方」とはなんだろう?
もしかしたら、新しい何かを作ることではなく、すでにある場所の中からその種を発見していくことが有効なのかもしれない。
それは組織のような共同体の中で行われていくのかもしれないし、
オフラインの場所がそのような役割を担っていくのかもしれない(と、大きな図書館という番組を見て感じた)
現代における、「サービスとしてのケア以外のあり方」に好奇心が向く。