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内側の衝動をことば(表現)にする方法

内側から湧き上がる"衝動"を言葉にするのは、繊細で難しい作業だ。

なぜなら、その衝動は目に見えず、形が定まっていないからだ。
言葉にする過程で、自分自身を見失うこともある。

書くことを目的にしてしまったり、「読み手の受け取り方」に意識が囚われすぎると、本来の自分のことば(表現)が霞んでしまうことさえある。

もちろん、書くことを目的にしたり、読み手を意識して逆算して書くこと自体は悪いことではない。そうした形式が必要とされる場面は確かにあるし、それ自体が価値ある方法だと思う。

ただ、それと同じくらい、誰かの「ため」や何かの「目的」ではなく、自分の内側から湧き上がる衝動をそのまま表現することを、自分に許しても良いのではないか。

どうすれば私たちは自分の内側に耳を傾け、その衝動を言葉として紡ぎ出すことができるのか。
最近の私の実践をもとに、その方法を少し書き残してみたい。



本との対話

私が大切にしているプロセスの一つが、本との対話だ。

ただ本を読むだけではなく、その言葉に触れたとき、自分の中で自然に湧き上がる感情や考えに耳を傾ける。

例えば、心に響いた言葉があれば、すぐにスマホの音声メモに記録する習慣を続けている。これにより、自分の内側に生まれた感覚や考えを瞬時に捉えられるからだ。

さらに、響いた一節をスクショしてNotionなどに蓄積しておく。
一通り本を読み終えた後、その一節に対して自分が何を感じていたのかジャーナリングをする。

すると、次のような気づきが生まれることがある:

  • 「私はこういうことに違和感を感じていたのか!」

  • 「これはこういう理由で心に響いたんだな。」

  • 「私が考えていたことと、過去の誰かの考えが重なる瞬間があるんだ。」

  • 「『それは悪だ!』と思い込んでいたけど、実は過去の歴史の中では必要な営みだったのかもしれない。」

こうした気づきを通じて、なんとなく感じていたことが具体的な言葉として形を持ち始める。また、自分の固定観念や視野の狭さに気づかされることも多い。さらに、本を通じて自分と近い考えを持つ誰かと出会うことで、勇気づけられることもある。

これは、本の中で響いた言葉と自分自身との接点を探る作業だ。

自己内省だけでは届かない領域に、外からの触発によって新たな視点を得る創造的営みであり、自己表現活動の「水やり」のようなものだ

毎日少しずつ水をやることで、自分の内側にある「種」が少しずつ芽吹いてくる。


自然と言葉が溢れ出す身体感覚を頼りに

自己表現には、「コップから水があふれるような感覚」があると感じている。

内側で熟成された感情や考えが満ち、自然に溢れ出す瞬間が訪れる。そのときこそ、自分が本当に伝えたいことを言葉にできるタイミングだ。

自分の中で大切にしている感覚や感情が少しずつ溜まっていき、それが十分に満ちると、言葉が自然と溢れ出す。けれど、それまでは焦らず、自分の内側に溜まっていく「水」が溢れる瞬間を待つことが大切だ。

本との対話は、まるで「水やり」のようだと表現したが、「今芽を出してやる」と意気込んでも、芽は思うように出ない。
芽が出るためには適切な行動を淡々と続ける必要がある。
そうしているうちに、ある日ふと、芽がひょっこり顔を出すように、自分の中から自然と言葉が溢れ出す瞬間が訪れる

例えば、私の場合は
セルフジャーナリングや、本との対話は淡々と続けている。
そして、ある日、散歩をしているときや、自転車に乗っているときなど、ふとした瞬間に文章が頭に浮かぶことがある。
そのときは一度立ち止まり、音声入力を使ってその場で文章を書き始めることもある。

逆に、書きたい言葉が出てこないときに無理やりひねり出そうとすると、とても苦しい。そんなときは一度手放し、芽が自然と出るのを待つように、前準備をコツコツと続けることが大切だ。


一度、発酵させる

言葉が自然に溢れ出したとき、「さあ公開しよう」と思うかもしれない。

でも、私はその衝動を一度「発酵させる」時間を持つことを大切にしている。

特に、感情が強く込められた文章ほど、このプロセスを意識する。
感情が宿ること自体は悪いことではないが、ときに盲信や承認欲求といった、必ずしも必要でない要素が含まれてしまうことがあるからだ。

一度書いた文章を寝かせ、以下の問いを片隅に置いておく:

  • なぜ私はこの文章を書いたのか?

  • 誰かに迎合したり、否定したりしていないか?

  • 自分の感情やエゴが反応的に文章を書かせていないか?

発酵期間中は、散歩やヨガ、お風呂の時間などリラックスした状態で、ぼんやりと思い返すことが多い。

数ヶ月後に文章を読み返すと、「誰かに認められたくて書いていたな」とか、「怒りや悲しみが全面に出てしまっていたな」と気づくことがある。
そして、そうした気づきから表現を見直すことで、不要な要素を削ぎ落とし、本当に伝えたかった言葉を磨き上げていける


数年前までSNSに文章を書くことさえも嫌だった私が、この1年で内側の衝動を言葉として表現することに喜びを感じるようになったのは、自分でも驚く変化だ。

このnoteは、以下のnoteを文章にしたプロセスの振り返りでもある。

もともと得意ではなかったからこそ、「文章を書くことや自己表現が苦手」と思っている人の助けになればと、この文章を書いてみた。

自己表現は、自分の内側を育て、言葉にする喜びのプロセスだ。それが、誰かの自己表現の後押しになれば幸いだ。



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