8年間の思い出
私が幼稚園年中さんの頃から小学校を卒業するまでの8年間を過ごした場所。
周りには山、川、畑、田んぼしかない場所に
お爺ちゃんの家があった。
父の故郷だ。
ここで住むまでの私たちは大阪で、父、兄、私と3人で住んでいた。
当時兄は小学生で、私は保育園に通っていた。毎朝、父のこぐ自転車の後ろに乗って保育園まで行っていた。
お爺ちゃん家で住むことになった理由は、父の夜勤が始まった事だった。
兄と私は父の故郷でお爺ちゃん、お婆ちゃん、ひいお婆ちゃんと一緒に住む事になり父は、
大阪に残り仕事を続けた。
8年間の記憶に残っていること。
私と兄は、お爺ちゃんたちをはじめ周りの
人にも恵まれていたと思う。
お爺ちゃんは、すごく優しかったし
ひいお婆ちゃんも私たち兄弟の事を心配しながらよくしてくれた。
お婆ちゃんだけは、厳しかったけど。。
今思えば、まだまだ幼い私とヤンチャ盛りの
小学生の母親代わりをしてくれていたのだから
厳しくなっていたんじゃないかな。
でも、厳しいだけじゃなかった。
小学校の行事事。参観日、運動会、懇談会、
発表会、全部来てくれた。
1人だけお婆ちゃんがみに来てることに嫌な思いをした記憶はない。
ご飯も子供が好きなメニューを作ってくれていた。料理の本やテレビをみながらメモしたり切り取って冷蔵庫の横に貼っていたのを覚えている。
誕生日、クリスマス、お正月、季節のお祝いも全部してくれた。
自分の子どものように接してくれたお婆ちゃんたちには、今だから思う。
感謝だけでは、足りないくらいだ。
春になるとお爺ちゃんは、生コン車の仕事とは、別にお米作りが始まる。
大きなハウスの中で苗を育て時期がきたら田植えをする。お婆ちゃんも手伝ってた。
この時期は、普段静かな村も都会に行った息子や娘が帰ってきて、にぎやかになる。
家族総出で田植えの手伝いをする。
孫たちも帰ってきてなんか皆んなうれしそうだった。
私の父も帰って来て田植えのお手伝いをする。私は、父が帰って来る日がすごくすごく
嬉しかった。
父は、春の田植え、夏のお盆、秋の稲刈り、冬の正月には、大阪から島根に帰っていた。
帰って来る日は、嬉しいけど大阪に戻る日の
朝は、悲しくて寂しくてずっと泣いていたのを覚えている。
ここは、都会とは違い四季を体全部で感じる事ができる。春になると家の前の竹やぶで筍が採れる。自然にできた自分家の筍。
緑の葉っぱが深く彩ってすごく綺麗だった。
夏は、太陽が近く感じれてミーンミーンミーンとミンミンゼミがなく。
畑では、トマトやキュウリ、トウモロコシ夏の野菜を作りお昼に食べる事が多かった。
秋は、紅葉で山が赤く染まる。薄い赤、
濃い赤、ところどころ黄色が入ってずっと見てられる。栗や柿も買わなくても食べれた。
冬は、雪が降り1メートルくらい積もって朝から除雪車が通る。
お爺ちゃんは、朝から家の前の雪かきや屋根の上の雪かきで忙しそうだった。
お餅つきも臼と杵でお爺ちゃんとお婆ちゃんが息の合ったリズムでついていた。
つくだけでは、終わらない。
丸めて白餅、ヨモギ餅、みかん餅、あんこ餅、鏡餅。全部自家製だ。
子供の時の8年間は、すごくすごく長かった。
ここには、書ききれないほどの思い出がある。
良い思い出も。悲しい思い出も。
私が住んでいた頃は、山も川もきれいで草刈りも行き届いてた。畑には、季節の野菜がどの家もいっぱいだった。
見渡す限り田んぼで、苗を植え終わったあとは、見渡す限り緑の苗が風にゆらゆら揺れて
気持ちが良かった。
近所の人も、畑仕事、田んぼ仕事によく行き来して会うと名前を呼んで声をかけてくれた。
こんな環境で8年間を過ごした。
あれから30年。
お爺ちゃんもお婆ちゃんもひいお婆ちゃんも
もういない。
畑には、昔ほどの野菜もない。
田んぼは、見渡す限りだったのに使われてない田んぼがいっぱいになった。
近所は、空き家が増えた。
川には、草が生い茂って足場がなくなっていた。
あの時とは、まったく違う景色だ。
過疎化が進んでいるのだ。若者は、都会にでる。スーパーや遊ぶ所も車で1時間は、かかる。電車もない。バスも1日2本くらいだ。
今誰もいなくなったお爺ちゃん家には、
父が2ヶ月おきくらいに帰って田んぼ仕事を継いでる。大阪に住みながら田んぼの数を減らして自分たちが食べる量だけのお米作りをしている。
今は、年に2回お墓参りをしに帰っている。
子どもたちを連れて。ただ、この2年間コロナ禍もあり帰っていない。今年こそは、帰りたい。
ここが8年間過ごした私のふるさとだ。
過疎化が進んでいる中、地元に残り村や町を守る活動、活性化させる為にいろいろなアイディアを出し合って頑張っている同級生がいる。
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