椿と佐倉のおしごと日記 虎澤百貨店外商部奇譚 第三話 一、二、三でこっちを向いて。

 

 00年代の初め、軽井沢にて

 父が所有する軽井沢の山荘では、若手の演奏家を招いての演奏会が夏と秋にあって、そこに演奏者の一人として招かれていたのが、東京藝大に通う彼だった。
 十七歳の私は、演奏会と同時進行で行われるパーティーの雰囲気が好きではなかった。
 だって会の間じゅう、どんなにつまらない話題であってもずっと、愛想笑いをして会話をしなければならないのだ。
 決まって聞かれるのは、進路のこと。それから、縁談の有無について。
 高校二年生の私にとって、進路の話題はの焦りを感じるものだったし、加えて縁談となると、遠い世界の事柄過ぎた。
 それでも、父の見つけてきた人と結婚しなければならないのだろうな、と何となくは思っていたけれど。
 とにかく、自分の中で何もはっきりと答えが出ていないことについて「どうするの」「どうなってるの」だなんて聞かれると、「私に聞かないで」と言いたくなってイライラした。
 若い音楽家たちが情熱的な演奏を繰り広げる横で、「十七歳の元気な女の子」の仮面をかぶって笑い、探り合いの応酬をしていると、とても疲れた。
 だから、その場を中座したくなるのは仕方のないことだった。
 そんな時、私が休みに行くのは決まって、皆が使う二階ではなく、一階の裏手にある人気のないテラスだった。
 そこで出会ったのが、彼だ。
 その夜、あたりには霧が立ち込めていた。軽井沢は霧の出やすい地形で、だいたい年間百日くらいは霧が出る。
 墨色の夜空を眺める彼の背中を見つけて、私は小さくため息をつき、「愛想笑いモード」に心を切り替えてテラスに出た。
 こちらに気が付いて振り返った彼に、「こんばんは。ホール、暑いですよね」と微笑むと、彼は会釈を返してきた。
 注ぎ口にライムを詰めたメキシコの瓶ビールを、人差し指と中指に挟んで持った彼の顔を見て、夏にも来ていたコントラバスの奏者だと気が付く。
 どの程度どんな話題について話して、どの段階で切り上げれば収まりが良いか。
 完璧なシミュレーションが組みあがったところで私が口を開こうとすると、彼は言った。
「あー。無理しなくて良いですよ」
「え」
 出鼻をくじかれて、言葉をうしなう私に、彼は続けた。
「僕も、勝手に一人で休むから」
 見透かされていると思ったのは一瞬。彼の言葉の意味に気が付けるくらい、自分が大人になっていて良かった。
 私が疲れてここへ出てきたことを彼は察していて、「ホールの延長戦をしなくていい」と言ってくれているのだ。
 お言葉に甘えて、無言のまま手近な椅子へ座る。
 目を閉じて軽く深呼吸をすると、濃い木々と水のにおいがして、風が頬に触れるのと葉擦れが聞こえるのとは同時だった。
 まるでこちらを飲み込もうとしているかのような暗闇にも、それに便乗するみたいに立ち込める霧にも、たしかな気配がある。
 真摯に肌で感じようとすれば、熱は自然に抜けていく。
 軽井沢はそれが出来る所で、だから避暑地と呼ばれているのだ。
 気分がすっきりした私は、彼を残してホールに戻った。 
 その時は、それだけ。
 まともな会話をするようになったのは、秋の演奏会の時。
 彼が通学していたのが上野だったので、そのつながりで「不忍池弁天堂と周囲の蓮を背景のビル群と同時にながめると、ちょっと脳がぐらつく感じがする」みたいな、変な話をした。
 携帯電話を持っていることが当たり前になりつつあるころだったけれど、連絡先の交換はしなかった。
 演奏会のたびテラスで会話をするだけの関係のまま二年が過ぎて、私が十九歳になった夏の終わり、父が私の縁談をまとめることに本腰を入れた。
 縁談の相手は、彼だった。
 両家の顔合わせの席で、彼の家が私の家と同等の資産を持つ経営者一族であること、彼は三代目の次男だということを知った。
 それから間もなくの秋の演奏会では、「秋の光に落ち葉が舞って」のアレンジが演奏されていた。
 この時期の軽井沢にぴったりな、郷愁を誘うメロディ。
 コンチェルトの中に彼の姿はなかった。
 母に化粧を直してくる、と告げて、私は一階のテラスへと向かった。
 テラスに、彼の背中を見つけた。いつもの透明なビールの小瓶はテーブルに置かれていた。
 晴れた空を見上げる彼に「こんにちは」と挨拶をしたら、振り返った彼と目が合う。
 息が苦しい。彼と直接会って話すのは、両家での顔合わせ以来だ。 
「──それ、私も飲んでみたい」
 何かを紛らわせるように、私は透明なビールの小瓶を指さした。
「それって、これ?」
 片手で小瓶を掲げてから、彼は首を傾げる。
「きみって、」
「もう飲めるようになったのよ」
 未成年じゃなかったっけ。という質問を遮るように、私は先回りをした。
 彼は虚を突かれたように私の顔を見つめた。
「わかった。取ってくるから、待ってて」
 奥に戻る背中を見送ってから、私は窓の外を見つめる。
 落ち着かない気分なのはきっと、初めてお酒を飲むからだ。
 テーブルの上には彼のノートパソコンが開いた状態で置かれていて、スクリーンセイバーが表示されていた。
 ハードディスクがカリカリいう音を聞いているうち、彼が戻ってきた気配を感じる。
 でもすぐには、振り向けなかった。完全にタイミングを逃してしまい、こういう時はどうするのがスマートなのだろう、と焦っていると、静かな声がした。
「振り向かないで、少しの間そのままでいて」
「……え、」
──どういう意味。動揺する私をよそに、彼は淡々と言った。
「三秒数えて、こっちを向いて」
 いったい、何のおふざけなのだろう? ごくりと唾を飲んでから、私は数を数えた。
「いち、に。さん……」
 振り向くのが怖い気がしたけれど、意を決して振り向いた。
 振り向いた先に、彼は柔らかく微笑んで立っていた。
 リングケースと、オレンジジュースの瓶を手に持って。

 同じ学校のお友達、美宇ちゃんの家は、とある高級住宅街にあった。
「おじゃまいたします~」
 と、ゆるい調子で私が言うと、
「ハイどうぞ~」
 美宇ちゃんも合わせるようにして返してくれる。
 私は今、美宇ちゃんの家に遊びに来ている。美宇ちゃんと改めて仲良くなって、お泊りさせてもらったりもしていた。
 最初に来た時にはさすがに緊張していたけれど、今はリラックスというか、緊張せずに来られるようになった。
 玄関で靴を脱ぎ、用意してもらったスリッパに履き替える。
 美宇ちゃんは一足先に、リビングへと入って行った。
「おかーさーん! あやみってぃが来たよー!」
 元気いっぱいの声に苦笑しつつ、脇に置いていたバッグを引き寄せようと手を伸ばした時だった。
「?」
 黒いバッグの表面に、小さな光がちらちらと揺れ動いた気がして、私はあたりを見回した。
 美宇ちゃんの家の玄関は、表面がつるりとしたグレーのコンクリートが基調になっている。
 このモダンかつシンプル極まりない空間の、どこからこんなに可愛らしい光が届いたのだろう。
 見える範囲にはそれらしいものは見当たらないのに──と考えかけて天井を見上げ、ああ、こんなところに、と納得する。
 そこには小さな電球がサイズを分けていくつも、散りばめるようにして埋められていた。
 中でも、オレンジ系の電球を頂点にして、正三角形を描くような配置の光が印象的で、強く心に残る。
「きれい……」
 滑らかなグレーのコンクリートの表面に灯る淡い光に見とれていると、美宇ちゃんの声が響いた。
「あやみってぃ何してんの!」
 呼びかけられて、ハッとする。
「早くおいで! ケーキがぬるくなる!」
 ぷんすかした顔で両手の人差し指でぴこぴこリビングを指さしている美宇ちゃんに苦笑して、私は立ち上がる。
 思いついて、直立不動で「びっ!」と敬礼してから、しぶい声で答えた。
「はっ。椿、可及的速やかにはせ参じます」
──当たり前だけれど、こういうノリは相手を選ばないと、かなりドン引きされてしまう。
 しかし美宇ちゃんは当然、全力でノってくれるタイプの人だった。
「あやみってぃ何それ……かっこいいじゃん」
 この、いかにも虚をつかれたようにして目を瞠り、「感心している感」を演出する瞬発力。
 逆に感心して、私も真顔になった。
 真顔どうしで一瞬見つめ合った後、私と美宇ちゃんは同時に笑い転げる。
 ひとしきり笑いあってから、二人で紅茶の香りのする広々としたリビングへと移動した。
 美宇ちゃんの家のリビングは陽の光がよく入って暖かい、素敵な空間だ。
「こんにちは」
「あらあやみちゃん、いらっしゃい。待ってましたー」
 紅茶のセットとともにテーブルに鎮座していたのは、盛りだくさんのフルーツとプリンが載った、とっても豪華なタルトだった。
 わぁ、と声を漏らした私に環希さん──美宇ちゃんのお母さんはにっこり笑って、「どうぞ座って」と優しく促してくれた。
「秋のフルーツのプリンアラモードタルト。お口に合うと良いんだけれど」
「あやみってぃがかぼちゃのスイーツが好きって教えたら、ママ張り切っちゃってね」
「えええ……!?」
 裏返った声が出てしまった理由はもちろん、おもてなしの気持ちが嬉しくて、驚いてしまったからだ。
「良いリアクションするじゃーん、あやみってぃ」
 美宇ちゃんが笑いながら、椅子を引いてくれる。
 席に着くと、環希さんが目の前のカップに湯気の立つ紅茶を注いでくれた。
「美味しいうちに召し上がれー」
「はい!」
 いただきます、と手を合わせてから、私は目の前のケーキをひと口分、慎重にフォークで切り分けた。
 口に入れると、カスタードの滑らかさとフルーツの新鮮な味わいに、自然と目を閉じてしまう。
 環希さんはそんな私を見て「良い顔してる」と笑ってから、何かを思い出したように「そうそう!」と手を打った。
「さっそくね、虎澤さんの外商部にお世話になってるの。お歳暮えらびのアテンドをしていただいて、まー助かったわ。もっと早くお世話になっておくべきだった」
 私はすごく嬉しくなり、大きく頷いた。
「それは何よりです!」
 実は、環希さんは最近、虎澤百貨店の外商利用のお客様になっていた。
 虎澤百貨店の外商部で働くことになったことを美宇ちゃんに伝えたら、美宇ちゃんが「うちの家、顧客になれるかも」と紹介してくれたのが環希さんだったのだ。
「外商さんにはね、実家にいた時にお世話になってたのよ。結婚してからはご縁がなかったんだけど」
 結婚してから──つまり、実家を出てからは外商を利用していなかったと聞いて、私は佐倉に聞いた「富裕層の子ども・孫世代あるある」を思い出していた。
 佐倉曰く、戦後に財を成して富裕層となり、外商に親しんでいた人の下の世代が、独立後に引き続き外商を利用するかというと、そうではない場合が多く──これは大きな課題と言えるのだそうだ。
「なんで使ってなかったの? 外商さん」
 美宇ちゃんが環希さんに訊ねる。それは私も気になるところだった。
 環希さんは「何でっていうか」と苦笑した。
「結婚した後、パパは普通の新卒と同じ扱いで今の会社──私の実家の会社に迎えられたから、そんなに余裕がなかったの。ママは学生だったし」
 美宇ちゃんがああ、と頷く。
「オヤジは婿入りすることになって、それで音楽をやめたんだっけ」
「──そうね」
 環希さんが微笑む。
「美宇ちゃんのお父さんは、音楽をやってたんだね」
「うん。東京藝大でコントラバスをやってたんだって」
「と、東京藝大……⁉」
 芸術の分野にうとい私だけれど、東京藝大──東京藝術大学が、すごいところだということは何となく知っていた。
 音楽で身を立てられるような人が小さい時から猛レッスンをして、入れるかどうかというレベルの学校だったはずだ。
「それがご縁で出会ったんだっけ、二人は」
「そうそう。美宇のおじいちゃん──うちの父が音楽が大好きな人で、軽井沢に持っていた別荘に、若手の奏者を招いて音楽会をしていたのね」
 特別な宝物をそっと取り出すみたいにして口を開いた環希さんの話に、私と美宇ちゃんは聞き入っていた。
 美宇ちゃんのご両親である環希さんとその旦那様が出会ったのは、秋。季節が進んで冷たくなった軽井沢の空気とは裏腹に、山荘のホールは音楽を愛する人たちの熱気で汗がにじむほどだったとか。
 賑やかな場所で来客と歓談することに疲れた環希さんは、演奏の合間に人気のないテラスへ涼みに出たのだという。
 そこにいたのがのちの美宇ちゃんのお父様──修平さんだったそうだ。
「コロニータ・エキストラっていう、透明なびんに入ったメキシコのビールがあって。それに櫛切りにしたライムを入れたのをね、修平さんは飲んでいたの。ポケットに片手を突っ込んでね」
 それはもう、かっこ良かったのよ──、と、環希さんは笑いながら、語ってくれる。
「今思い出してみると、背中に惚れたのよね。海外のビールなんて飲んで、蓮っ葉な雰囲気なんだけどかえって品があるし、優しそうだって思って」
 環希さんの実家──つまり美宇ちゃんのお祖父さんとお祖母さんの家は代々、子は親が決めた相手と婚姻しているそうで、環希さんも将来はそうなると言い聞かされていたらしい。
 それにしても、と、私は思った。
 背中に惚れるだなんて、素敵な話だ。
「私の気持ちは両親に知られていてね。それでうちの父が張り切ってちょっと強引にね、話をまとめたの」
 どことなくばつが悪そうな顔で、環希さんは苦笑する。
「まーそれでオヤジもOKしたんだから、両想いだったってことだよねぇ」
 自分の親ながら中てられるわぁ、と美宇ちゃんは目をつむり、顔を手で扇いだ。
「両想いだったかどうかは正直わからない。すごく優しい人だから」
 そう言った環希さんの声が少し寂しげだった気がして、私は顔を上げる。
「とにかく、修平さんには感謝してるの。だから毎年、結婚記念日にはたくさんご馳走を作ったりして、御礼をするのよ。ありがとうの気持ちを伝えるために」
「あー、あれってそういう意味があったんだ」
「そう、感謝祭ってこと」
 笑いながら言って、環希さんは続ける。
「結婚記念日ね、もうすぐなのよね~。今年は結婚ニ十周年で──そうだ!」
 環希さんは何かを思いついたように手を叩き、私を見た。
「そういうパーティーのプランニングも、外商さんにお願い出来るのよね?」
「! はい、色んなスタイルをご提案出来るはずです」
「今年は思い切っておまかせしちゃおうかしら。ニ十回目ともなるとね、なんだかもうマンネリしちゃってね」
 私の仕事も忙しいし、と苦笑いしている環希さんに、美宇ちゃんも「いいんじゃん?」と頷く。
「いっつも凝ったテーマでびっくりするけど、たしかにそれが当たり前っぽくなっちゃってたもんね。ここらでさ、ずばっと目新しいことをやって、オヤジをびっくりさせちゃおうよ」
 イベントの企画の内容を考えて欲しいというご用命は、なかなか多いと佐倉に聞いていた。
 提案できる内容は様々で、用途や主旨に合わせたユニークなプランを立案出来るのが虎澤百貨店外商部の強みなのだとか。
 たとえば屋形船を手配したり、縁日を開催したり、外国のお客様へのおもてなしのために語学の堪能なケータリングのお寿司屋さんを紹介したり。
 海外へ出るのであれば、お子様のサマースクール付きのプランを手配して、ご夫婦でゆっくり出来る時間を確保したり、などなど。
 大事なお友達の、ご両親のアニバーサリー。
 私もお手伝いさせてもらいたい……! と、強く思うのだった。

 帰り際、玄関で私がスニーカーに履き替えていると、美宇ちゃんが口をとがらせる。
「何なら泊まって行けばいーのにさぁ」
 その横では、環希さんが呆れたように笑っていた。
「あはは。次回はぜひ泊まらせてね」
 嬉しいことを言ってくれる美宇ちゃんに答えていた、その時だった。
 美宇ちゃんの日に焼けた頬に小さな光がかかって、思わず私は声を出した。
「あ。この光って、綺麗だよね」
 美宇ちゃんが「ああこれね」と自分の頬を指さしてから、天井を見上げる。
「親父がこういうの好きで、つけてもらったんだっけ。家建てる時に」
 環希さんは「そうそう」と頷き、
「照明でアート作品を作ってる作家さんにデザインしてもらったのよね」
 照明のアートを作っている作家さんがデザインした証明だなんて。
 す、素敵……!
 天井を見上げてため息をついてから、私は慌てて顔を引き締めた。
 いつまでも間抜け面をさらしていないで、しっかり言うことを言って、お暇しなければ。 
「ご用命の件──ご成婚ニ十周年パーティー。素敵なプランをご提案できるよう、がんばりますね」
 真剣な顔で言った私に、環希さんはにっこり微笑んだ。

 
 壁にかかった無機質な丸い時計が午前十時を指ししめす直前、私は立ち上がった。 
 丸の内虎澤百貨店の事務フロア奥に位置する外商二部の執務室には、私と佐倉の二人しかいない。
 及川部長と先輩二人──板花さんと宮ヶ丘さんは、外出している。
 本当に皆さんよく出歩いているので、私や佐倉のような、遠くに行く時間があったり、ちょっとした届け物やおつかいをお願いできる人員が必要なのは納得だった。
「よいしょ、」
 私は古いせいでキャスターの回りが悪くなった事務椅子を、佐倉のデスクの方へと一生懸命押して佐倉が座る横に移動させた。
 佐倉のデスクにはタブレットとワイヤレスタイプのキーボードと、ペンと手帳が載っていて、他のものは一切置かれておらず、よく片付いている。
 部長のデスクには、担当している奥様たちからいだだいたと思しき、千代紙を貼り合わせた茶筒だったり、人気キャラクターを模したキーホルダーだったり、鈴の付いたお守り風巾着(ちりめん)が飾られている。 
 宮ヶ丘さんのデスクには、USBで稼働する小さな加湿器と福島県のの民芸品「赤べこ」、
 板花さんのデスクにはエッフェル塔のミニチュアや小ぶりな地球儀──といったぐあいに、みんなデスクになにかしら個人の趣味のものを置いている。
 けれど、そういうものがない佐倉のデスクには、かえって佐倉の個性が顕れている。
「……なんで横に並ぶんだよ」
「だって、向かい側だと遠くて話しにくいですし」
「まったく……」
 何がまったくなのだろう。私だって「まったくだなんて、まったく嫌味ったらしい」と言ってやりたい。言わないけど。
 私がはるばる佐倉のデスクに出張ってきたのには、理由があった。
 美宇ちゃんのお母さん──環希さんからお願いされた結婚ニ十周年パーティーの企画立案。
 佐倉に相談を打診したら、「十時からなら」と言われていたのだ。
 佐倉は頬杖をつきながらこちらを見る。
「お客様からさっそくこういうご用命をいただいたなんて、椿はなかなかやるな」
「! ……ま、まぁ人徳ってやつ? です」
 褒められるとは思っていなかった。不意打ちを食らって、もごもごうそぶいてしまう。
 それから気を取り直して、私は口を開いた。
「えーと。今回ご用命を下さった朝松環希様は、自動車の主要部品を製造するメーカーの創業家に生まれ育った方。旦那様とは、「子どもの結婚相手は親戚一同の協議で決める」っていう代々の決まりに沿うという形ではあったけれど、恋愛を経てご結婚されたそうです」
 佐倉は頬杖をついたまま私の話に聞き入り、そのうえで質問をはさんでくる。
「その旦那様は、今は創業家の一員として経営に携わっている?」
 私は目を見開いた。佐倉の言った通りで、旦那様である修平さんは、いまは役員の立場にある。
「どうしてわかったんですか?」
「娘婿を最有力の後継者候補とするのは、企業の創業家ではよくあることと言える。企業戦略の本にも記されているくらいだ」
 佐倉はそう言って、
「たとえばかつて大阪船場の商家では、優秀な番頭を娘婿にして家業を継がせる伝統があった。世界にはばたく家電メーカーを立ち上げ「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助が後継に選んだのも娘婿だったし、とある自動車メーカーの後継の社長が全員娘婿なのは有名な話だ」
 と、つらつら語る。
 なんとも興味深い内容に、私は「へぇえ……」と素の声を出してしまった。
 佐倉にも感心だ。よくもまぁ、毎度こんな情報を、頭の引き出しからさらりと取り出して話せるものだ。
 呆気にとられる私に気が付いた素振りもなく、佐倉は「だから」と続けた。
「──旦那様は、とても優秀な方なんだろうな」
「うん。きっとそうなんでしょうね」
 朝松夫妻の背景を共有した上で、本題だ。
「お二人にぴったりのプランにするには、どうしたら良いんでしょうか」
 佐倉はちょっと考える表情になった。
「交友関係は広い方なのか? そうなると、月並みだがお二人にゆかりのある何かをドレスコードにしたパーティーもアリとは思うが……まぁそういう華やかな感じはこれまで多く経験されているだろうし。今回はビジネスの目的でもないし」
 そう言って、頬杖をついたまま首を傾げる。聞いていた私は、ちょっと焦った。
「普段からそういう世界に生きている方に特別なプランを提案するのって、もしかしなくても、かなり難しい、ですよね……?」
 こちらが張り切って考えたプランでも、お客様としてはいまいちに感じてしまうことだってあるわけで……それはなんとか避けたい。
「ど、どうしよう。どうやって考えたらいいんでしょうか」
「あくまで、俺の解釈だが」
 前置きして、佐倉は金属みたいな質感の、ずっしり重たそうなシャープペンを長い指で器用に回した。
「うちの部が重視しているのは、お客様が求める虎澤ならではのプラスアルファと、意外性の加味。つまりエックスだ」
「ファ……? え? エックス……?」
 いきなりわけのわからないことを言われて、びっくりする。
「えーと? どういうことでしょう」
「ひらたくいえば、標準的な内容に、虎澤の独自性あるサービスと、お客様のニーズに基づいた意外性のある何か──つまりサプライズ感のあるサービスを、合わせて提供する」
「サプライズ感……」
「及川部長はこういう言い方をしていた。虎澤の外商員が真心を持って思いついたサービスと、お客様の個性が求めるサービスが共鳴した時に、必ずお客様にいい意味での驚きを感じていただけるのだと」
「いい意味での驚き……難しそう」
 つまり外商には、お客様の心が揺れ動くようなサービスの提供が求められているということだ。
「難しい話だとは俺も思う。でも立ち止まっていても仕方がないから、まずはスタンダードとは何か、を考える」 
「うーん」
 スタンダード……と悩みつつ、思いついたことを挙げてみた。
「たとえば、今時期だったらハロウィンのモチーフを絡めてみる、とか……うーん。でもハロウィンで仮装してパーティーして、楽しくなる……っていうタイプの方ではない、のかも」
 握りこぶしを口もとに当てて、煙が出そうなくらい考えるけれど、全然良い案が思い浮かばない。
 そんな私を見て、佐倉はまたシャープペンをくるりと回す。
「じゃあ、俺ならこういうプランを立てる」
 佐倉が挙げたプランは、次の通りだった。
 最新のアクティビティを無理なく盛り込んだ、ご夫婦水入らずでの旅行。
 プライベートリゾートに親しい友人や親族を招いての、披露宴風。
 新婚旅行に行った先を尋ね歩いて当時と同じ構図で写真を撮り、アルバムとして製本する。
 ふんふんなるほど、と思いながら、私は佐倉の提案をスマートフォンのメモアプリに入力する。 
「スタンダードだけど、たしかにイイかも……提案して、意見を聞いてみようかな」
「提案と一口に言っても、いろいろとやり方があるけど。構想はあるのか」
「とにかく朝松様が具体的にイメージできるように、視覚に訴えかけられる資料を作ってみようと思います」
「視覚的に、か。良いんじゃないか」
「はい」
 私は膝の上の手をぎゅっと握りしめた。方向性が見えてきて、体の中に気合がみなぎってくる。
 まずは自分の頭の中に浮かんでいることを、いったん紙に書いて整理しよう。
 もちろん、私の独断ですべてを進めて良いわけはない。都度、先輩方や及川部長にも相談し、意見を聞かなくては、と考える。
 自分のデスクに戻ろうと、勢いよく立ち上がる。
 古びた椅子がやる気スイッチの入った私を鼓舞する様に、ぎぃっときしんだ音を立てた。

 数日後、私はまた朝松家を訪問していた。
 玄関で黒いビジネスバッグと虎澤のロゴ入りの紙袋を持った、外商部の制服姿の私を見て、環希さんが「あやみちゃん、すごくかっこいい」と、驚いた顔をしてくれる。
 照れくさかったけれど、居住まいを正して、口を開く。
「本日は、お直しさせていただいたお品のお届けと、記念日の打ち合わせで伺いました」
──ややぎこちなさはあったように思うけれど、つっかえずに言うことが出来た。
「ああ! もう仕上がったのね、早くてびっくり」
 至らなさ満点な私なのに、環希さんは「打ち合わせも楽しみ」とにこにこ笑ってくれる。これには感謝しかない。
 正直なところを言えば、仕事モードで友達のお母さんに会うのはなんとも恥ずかしい。
 けれど新人アシスタントとはいえ、私は虎澤百貨店の外商員なのだ。もじもじせずにビシッとしなければならない。
 応接間に通され、L字のソファの下座に座ると、環希さんがお茶を持ってきてくれた。
 蓋つきのお茶碗を開けて、お茶の香しさにうっとりそうになる。
 どうやら、香りも温度も最適なタイミングになるよう見計らってくれていたらしい。
「今日美宇はヨットの日なのよね」
 緊張している私をほぐそうとしてか、環希さんが美宇ちゃんの話題を振ってくれる。
「そうでしたね」
 サークルで早朝から湘南の方に行っている美宇ちゃんの顔を思い浮かべたら、なんだか楽しい気持ちがこみあげた。
 顔を上げると環希さんも笑っていて、私たちは顔を見合わせ声を出して笑った。
 これで完全に、いつも通りの私だ。環希さんの気遣いがありがたかった。
 頃合いを見計らって、私は顔を上げる。
「お直しのご依頼をいただいていたニットをお持ちしましたので、ご確認ください」と紙袋から取り出したのは、「バーキン」のバッグが有名なフランスの老舗ハイブランドのニットだった。
 グレーの地に首元の内側にビビッドなオレンジの生地があしらわれているそのニットは、まだファッションにうとい私から見ても、抜群に質感が良い。
 首回りと肩の部分を小さく作り直したそれを差し出すと、環希さんは「わぁ」と嬉しそうに目を細めた。
「夫用に虎澤さんで買って着てもらっていたものなんだけどね、見ているうちに私が気に入っちゃって」
 にこにこ上機嫌な環希さんを見て、私も嬉しくなる。
 結婚記念パーティーのご用命をいただいた時もそうだったけれど、改めて環希さんの「旦那様愛」を感じた。
「ご夫婦で、本当に仲が良いんですね」
 私の言葉に、環希さんが顔を上げる。
「そうなの? 他のおうちって、あまりこういうことはしないの?」
 聞かれて、私はちょっと首を傾げた。私も世間をそう広く知っているわけではないので何とも言えない部分はあるのだけれど。
「私の両親の話でいえば、父が着ていたものを母が直して着るなんてことはまずしないです。『お父さん、その服どこで買ったの? どうなってるのそのセンス⁉』ってびっくりしていることはけっこうというか、かなりありますけど……」
 そんな風に一番身近な例を挙げると、環希さんはけらけら笑って、それから手元のニットを手のひらで撫でた。
「仲が良いって言われると……どうなのかしらねー」
 まんざらでもなさそうに首を傾げた環希さんだったけれど、濁すような、含みを持たせるような言い方だった。
 私はそっと環希さんの表情をうかがう。環希さんは何事もなかったようにお茶を飲んでいて、ああそうかと納得する。
 きっと、濁すような含みを持たせるような言い方は、謙遜だ。
 次は結婚記念日パーティーの話をしなければと考え、私は資料の入ったバッグを引き寄せた。
 可能な限りじっくり時間をかけて、たくさん環希さんの意見を聞きたい。
 そう思いながら、ファスナーを開けようとした、その時だった。 
 応接間の私の位置から見える、リビングへとつながる廊下に、人の気配がした。
 見ると、環希さんと同じ年齢くらいの、中肉中背の男性が立っている。
 チノパンに上品なシャツ、ジャケットを羽織ったその人と目が合って、私は咄嗟に立ち上がろうとした。
 挨拶をしようと思ったのだ。しかし、男性は薄く微笑んで会釈をすると、そのままリビングの方へと去ってしまった。
 環希さんの申し訳なさそうな声が背中にかかる。
「ごめんなさいね。あの人って人見知りなの、すっごく」
 状況から判断するに、男性は環希さんの旦那様かつ美宇ちゃんのお父さん──修平さんだったようだ。私は振り返り、
「とっても素敵な旦那様ですね。美宇ちゃんに似ているように思いました」
 と微笑む。修平さんの目元や通った鼻筋は美宇ちゃんにとてもよく似ていた。
 環希さんはふふっと笑い、「そうそう、パパにそっくりなのよね」と嬉しそうに頷いた。
「人見知りのシャイなパパと、今年はどんな風に記念日の時間を過ごそうかしらね」
 楽しい悪だくみをしているような。悪戯っぽい笑み。いわば共犯者の私は、ワクワクしてしまった。
「記念日の日はご夫婦で一緒に、お休みが出来そうなんですか?」
「そうね。いそがしい人だけれど、そこだけは、少なくても半休は取ってくれるの。毎年ね」
 言いながら環希さんは私の茶碗に、お茶のお代わりを注いでくれる。
 思わぬタイミングでの修平さんの登場に驚きはしたものの、かえってその後はスムーズに結婚記念パーティーの打ち合わせを始めることが出来た。
「では、そのあたりのご提案をさせていただきますね」
 作ってきた資料は、パンフレットや、ネットで見つけた気になる情報をプリントアウトしたもので、簡単なスクラップブックになっている。
 環希さんから見えるように開き、簡潔な説明をすると、環希さんは瞳を輝かせてたくさんの食いつきを見せてくれた。
 具体的にどの箇所で環希さんの反応があったのかを頭の中にメモしつつ、どんどん聞き取りをする。
 どうやら環希さんはある程度、直感でものごとを決められるタイプなようで、思った以上に順調に話を進めることが出来た。
 コンセプトは「二十年の感謝と振り返り、そしてこれから」にしたい、ということになり、後日の打ち合わせで詳細を詰めていくことになった。
 次回の打ち合わせ日を決めて、帰り支度をしていると、環希さんがおもむろに口を開く。
「二十年も一緒にいるとね、」
 穏やかな口調に、私は手を止めて「はい」と聞き入った。
「お互いにリスペクトはしているけれどね、それが行き過ぎて、言いたいことが言えていない部分はあると思うの」
 微笑んで、環希さんが顔を上げる。
「だからね、それを今回、形にしていけたらと思っているの」
 また悪戯っぽく笑った環希さんに、私は「お供します」と言って笑い、朝松邸を後にした。
 次の訪問先への道すがら、さっきの打ち合わせを思い返す。
 環希さんと話をしていて感じたのは、二十年も一緒に夫婦生活を送っていると、外側から察することの出来ない様々な思いが生まれるのだろう、ということだった。
 ふと、自分もいつかは結婚して、年月を重ねた時、夫婦だからこその微妙な関係性について、身を持って実感するときがあるのだろうか、その時の私はどう対処するだろう、と考える。
 ううむ、と心の中で唸ったけれど、ほぼ何も想像ができない上に、何の感情も湧いてこなかった。
 私にとって結婚は遠すぎる話だ。自分に結婚願望があるかどうかすら、わからない。
 ただひとつ言えるのは、結婚するとして、その相手とはまだ出会ってすらいないだろうということ。
 数秒で終わった妄想ですらないものに見切りをつけて顔を上げると、私は電車に乗り遅れないよう、小走りで目の前の横断歩道を渡った。

 
「と、いうわけで。朝松様は私たちの提案を、とっても評価して下さっています」
 虎澤百貨店外商二部の執務室で、私と佐倉はまた、佐倉のデスクで頭を突き合わせて話をしていた。
 及川部長や先輩方が外出していて静かな執務室の中に、佐倉の淡々とした声が静かに響く。
「──お二人が初めて一緒に食事をした都内のレストランを貸し切っての、ささやかなパーティー。二十年の歩みを進める中でご縁が出来た共通の知り合いを招待、旦那様へのサプライズにする、か」 
 佐倉が読み上げていたのはタブレットに表示された私の企画書だった。
「はい。やっぱり『初めての』って思い入れが深いと思うんです。でも──」
「でも?」
 佐倉は私の話をあいかわらず頬杖をつきながらではあるけれど真剣に聞いてくれていた。
 だから私も、もやもやとして、言葉にすることが難しいような心の内を、軽い気持ちで打ち明けることが出来る。
「なんかこう……」
「なんかこう?」
「ふ、普通じゃないです? 特別感はあるけど、普通の特別というか」
「それはそれで良いんじゃないのか? 普通すなわち安定。王道、最大公約数ってことだろ」
「まぁ、それはそうなんですけど……」
 でも、何かしっくりこない。
「なんだけど、なんだよ?」
 佐倉が「言いたいことがあるならはっきり言え」という顔をしていたので、私はおずおずと口を開いた。
「えーと。すごく楽しそうだけど、なんというか。ぜんぜん……」
「全然?」
「全然、ときめかないんです」
「ときめかない? 朝松様は満足そうにしていらっしゃったんじゃないのか?」
 佐倉がじれったそうに首を傾げる。
 私の心の中にはじんわりとした、もしかすると自分の感覚がおかしいのかもしれないという不安のようなものが広がっていた。
 ちがう。朝松様──環希さんというお客様の反応が、ときめいていなさそうだという話ではない。
「その──ときめかないのは、私が」
「……」
 言ったとたん、佐倉の眉間にしわが寄ったので、私は冷や汗をかいた。
 やっぱり、サービスを提供する側の人間がこんなことを言うのはおかしいらしい。
 それもそうだ、と思う。だって普通に考えたらたぶん、サービスへのときめきというのは、お客様側の感覚だ。
 というのは理解しつつも、私は言い訳をするようにして、自分が抱いた思いを打ち明けていた。
「あの、カフェで働いていた時にそうだったんですけど。これならきっと喜んでいただける! っていう手ごたえを感じている時って、頭の中がビリビリして、胸がきゅんとなるというか」
 うまく言葉で言い表せないのが自分でもどかしくて。身振り手振りで必死に説明する。
「目の前の朝松様に喜んでいただいてる感触はたしかにあるんですけど、頭のどこかで「これで良いのかな」って不安になる気持ちもあって……」
 上目で窺うと、佐倉はいつもと同じ表情に戻っていて、神妙な声で口を開いた。
「──部長も鷹さんもすみれさんも、椿と同じことを言っていたのを思い出した」
「えーと、要するにどういうことですか?」
「及川部長も鷹さんもすみれさんも、これぞという閃きがあった時には〝ときめき〟があって、気持ちが湧きたつのだと言っていた。普通のプランを提案した時にお客様の満足されてたとしても、外商員個人としてときめきを感じたプランの方が、結局はもっと大きく満足していただけるのだと」
「そうなんですね……」
 とにかく話を総合すると、お客様に喜んでいただけそうなサービスを閃いた時にはときめきを感じる──ということについて、他の皆さんも同じことを言っているらしい。
 自分でも突拍子のないと思っていたのと同じようなことを、外商部の先輩方が言っていたという事実にはちょっとびっくりだし、嬉しくもある。
 けれど、だからといっていきなり先輩方と同レベルの発想が出来るようになったわけではもちろんなくて。
 難題を前にしている状況は変わらずだ。むしろハードルは上がっているのかもしれない。
「サービスを提供する側もときめくものを、って考えると、やっぱりとんでもなく難しいですね」
 私の悩まし気な声に、佐倉が顔を上げた。
「及川部長は、こうも言っていた。お客様を取り巻く環境の中で見えたこと感じたこと──つまりお客様についてインプットしたすべてを総合して考えた時に、最適解が生まれることもある、と」
「インプットしたすべて──」
 朝松家で見たこと感じたこと。もちろん、色んなものがある──目を閉じて反芻した時、
「!」
 天啓みたいに、頭の中に閃いたものがあった。でも、
「えっと、これは……」
 なんと表したらいいんだろう。こういう時の言語化ほど、難しいものはない。
 うぅ、紙に書いて整理したい──と手をごにょごにょ動かしていたら、佐倉が椅子を横に動かした。
「ほら」と言いたげな顔。デスクを使えと言ってくれている。察しの良さがすごい。
 この前、足でこぐようにして椅子ごと体を移動したら、「子供っぽい」と佐倉に怒られたので(納得だし恥ずかしかった)、一度しゃきっと立ち上がってから、佐倉のデスクへ椅子を移動させる。
 まっさらなメモ用紙の他に、シャープペンが目の前に差し出される。佐倉が貸してくれたそれは、手に取ると「金属みたいな質感」どころか金属そのもので、ずっしりと重たかった。
「重っ」
「製図用だからな」
 なんで製図用、と思ったのは一瞬で、すぐに頭が切り替わる。 
 朝松家で私が見たもの聞いたことはたくさんあるけれど、まず何を書こうか──と考えているうち、自分でじれったくなった。
 ええいままよ! と手が動くのにまかせて、記憶に残っていたことを書き進めることにする。 
 横から佐倉が私の手元を覗き込んでいる気配を感じつつ、ある程度形になったところで、佐倉が口を開く。
「椿、これは──」
「何か知ってるんですか?」
 手元を指し示しながら言うと、佐倉が頷いた。
「もしかすると、重要な要素になりえるかもしれない」
 そう前置いて、佐倉は語り──その内容は、まさに私の中に欠けていた情報だった。
 目の前がチカチカする思いだ。
 欠けていた情報をもとにすると、他の全部が繋がって得られた確信があって、そこからさらにアイデアが生まれていく。
──これだ、と私は思った。
 これがきっと、ときめきなんだと思う。
「──とにもかくにも、朝松様と打ち合わせをしなくちゃいけないですね」
 頷いた佐倉の横で、私はスマートフォンを手に取った。

 
「マイナスイオ~ン♡ 気持ちいい~」
 目をぎゅっと閉じながら両手を広げた美宇ちゃんに倣って、私も同じ方向へと体を開いた。
 目の前には、「白糸の滝」と呼ばれるにふさわしい、細い滝の連なりがある。
 黒っぽくて垂直な、だいたい数十メートルくらいの幅の岩肌一面に、数えきれないほどの白く細い滝が流れていた。
 見た目こそ繊細ではあるけれど力強く流れ落ちたそれらは、エメラルドブルーの美しく澄んだ滝つぼからしぶきをあげ、細かな水の粒子になって私たちの方へと吹いてくる。
 滝の上は山の斜面になっていて木々が生い茂り、ところどころにみずみずしい苔が生えていた。
 なので、まさに「緑と水そのもののにおい」がする。
 流れている水がひたすらに透明なのは、浅間山に降った雨が六年もの歳月をかけて伏流し、自然に濾過されたのちに流れ出しているからなのだとか。
 目を閉じてただただ両手を開き、緑と水の空気を全身に浴びると、頭の中に浮かんでくる言葉があった。
──私たちはいま、軽井沢に来ています。
 そう。私たちはいま、長野県の軽井沢町に来ている。
 目的はもちろん、かねてから計画していた朝松夫妻の結婚ニ十周年パーティーを、二人の馴れ初めの地で催すためである。
 佐倉と気が付いたあることをきっかけに、私はそれまでの打ち合わせの内容を一新するような提案を環希さんにした。
 結果、環希さんが「それは最高。妙案だわ」と案を気に入り、準備を重ねて今日にいたったのだ。
「この滝を見に来たのって、美宇が六歳の時以来だから、十四年ぶりくらいになるのね」
 モンクレールのマウンテンパーカーを羽織った環希さんが、感慨深そうに目を細めた。
 その横で美宇ちゃんは、眉間にしわを寄せながら半目になって、こんなことを言う。
「ここにくる時にあった動物の木のオブジェ、可愛すぎて持って帰りたい……あやみってぃ、何とかして」
 私は苦笑いした。美宇ちゃんが言っているのは、ここへ来る途中の小道に置いてあったリスやクマの木彫り人形のことだ。
 間伐材か何かを使って粗く削り出された動物たちは、木のぬくもりが感じられる「山の人形」といった風で、確かにすごく可愛かった。
 この後行く施設で似たようなものを扱っていないだろうか、と考えていたら、横に立った佐倉が目くばせをしてくる。
 私はっとして、腕時計を確認した。もうすぐ移動の時間だ。
「そろそろ、戻りましょうか。楡のウッドデッキがあるレストランに移動して、おそばとジェラートをいただきましょう」
「そのあと、駅の方でローストチキンもね」
 すかさず付け加えた美宇ちゃんである。
 楡のウッドデッキがあるレストラン&カフェは朝松家が美宇ちゃんの幼少時、軽井沢に訪れたの同じころに開業した施設で、当時時間の都合で立ち寄れなかったのを環希さんは後悔していたそうだ。
 ローストチキンのお店は四十年以上の歴史があり、こちらは環希さんが子どものころから親しんだ馴染みのある老舗である。
 今回、ローストチキンはテイクアウトをする予定で、美宇ちゃんにはそれを伝えてもいたのだけれど。
 どうやら味見をするつもりでいるらしい美宇ちゃんの言葉に、環希さんがくすくす笑っていた。
──楽しんでいただけているようで、良かった。
 安心して、ものすごく大きなため息が出そうになるけれど、いやまだだ、まだまだメインはこれからだ、と私は気を引き締めた。
 楡のテラスで、香りのよいおそばと季節野菜の天ぷらを、珍しいくるみのそばつゆでいただいた後に、クラフトショップに立ち寄る。
 美宇ちゃんも環希さんも、可愛らしい木工品をいくつか購入していた。
 買い物をして腹ごなしが済んだら、ナガノパープルやシャインマスカット、りんごなどなど、長野が誇る素晴らしいフルーツのジェラートに舌鼓を打った。
 それから、軽井沢駅の近くへと車で移動する。
 ローストチキンのお店は大変な人気で、飛び入りでのイートイン利用はさすがに叶わなかった。
 けれど美宇ちゃんも環希さんもそんな出来事すら楽しんで、「今度は絶対に予約してこようね」と意気込んでいた。
 運転手の佐倉は黒子のようになって存在感をほぼほぼ消しつつも、車内の会話にちょっとした雑学をさりげなーく、絶妙なさじ加減で挟んだりしている。
 私が感心したのは、佐倉のアテンドの仕方だった。
 佐倉の小さな発言をきっかけに、環希さんや美宇ちゃんが「そこに行きたい」となり、予定に組んでいない景勝地に行ってみたり──つまり「予定通り」をあえて崩すことで、お客様に楽しんでいただく。
 こういうやり方もあるのだと参考になる。
「私の知らなかった軽井沢がたくさん見られて、とても嬉しいわ」
 環希さんはにこにこしていた。
「昔と変わらないところを見るのも楽しいし、変わったところを見るのも新鮮な気持ちになるから」
 車窓の外に流れる白樺の林を見ながらそう言って、ふと環希さんは頬を膨らませた。
「もう、修平さんも朝から来られたら良かったのに」
 わざとらしく拗ねて見せた表情には年齢を感じさせない魅力があって、修平さんに見て欲しいと思ってしまう。
 そう、残念ながら今ここに修平さんはいないのだった。
 というのも、東京の朝松邸から軽井沢までは、だいたい車で三時間近くの道のりだ。
 そうなると、しっかり観光をするには朝のそれなりに早いうちに東京を出なければならないわけだけれど、修平さんは仕事の都合で一緒に出られなかった。
 いち企業のおえらいさんとなると、やはりお忙しいということだ。
 でも夜には間に合うように東京を発つそうなので、信じて待つしかない。
 夜──と考えて、私は少しばかりの緊張を感じた。
 実は今夜、朝松夫妻の馴れ初めの場所で、環希さんはとある試みに挑戦する。
 目くばせをすると、佐倉は頷き、丁寧な手つきで車のハンドルを切った。

 
 環希さんと修平さんが出会った思い出の別荘は、既に人手に渡っていた。
 けれど幸運にも及川部長の伝手から所有者へ渡りをつけることが出来たため、今日この日の計画を実行することが可能になったわけである。
「……昔と変わったような変わらないような、不思議な気持ち」
 瀟洒な洋館を見上げて、環希さんはそんなことを呟いた。
「私の曾祖父が造ったものなの」
 感慨深そうに言う環希さんの横で、美宇ちゃんが首を傾げる。
「あたしのお祖父ちゃんのお祖父ちゃんね。てことは、だいたい何年前?」
「──軽井沢の別荘地には百三十年以上もの歴史があります」
 美宇ちゃんの疑問には、佐倉が答えた。 
「明治の中期ごろ、当地の自然の美しさ、気候の良さに感銘を受けた外国人宣教師が、ささやかな山荘を作り、家族友人を招いて夏の一時期を過ごすようになったことがきっかけだったそうです」
 穏やかな調子の佐倉の説明に、みんなで聞き入る。
「同時期に碓氷新鉄道が開通したことで、当地はおおいに発展が進んで、日本人の別荘も増えていきました」
 環希さんが佐倉の解説に頷く。
「そうそう。うちの曾祖父はね、知り合いの実業家が都内に建てた私的迎賓館を真似て、同じようなものを造ってもらったって言ってた」
「はぇー! やるじゃん、おじいちゃんのおじいちゃん」
 美宇ちゃんが素っ頓狂な声を上げた。
「軽井沢に最初に別荘が作られたのが百三十年前ってことは、コレは築何年? 百二十年とか?」
 環希さんはううん、と首を振る。
「うちのは大正になってから建てたみたいだから、もっともっと新しいんじゃない?──ていうか、今は「うちの」じゃないけど……美宇も「コレ」なんて言っちゃダメ」
 環希さんはそう言って苦笑し、私はしんみりした気持ちになった。 
 二千年代になって数年が過ぎたころ。世界同時株安と呼ばれる、歴史に残る不況があった。
 その際、少しでも従業員のための資金を調達しておきたいと、環希さんのお父様はこの別荘を手放していたのだ。
 美宇ちゃんが「あ!」と何かに気が付いたような声を上げる。
「あそこ。オヤジ来てんじゃん?」
 指さした先の駐車スペースには黒塗りの高級車が停まっていて、修平さんが降りてくるところだった。
 これで、役者が揃った──なんて言うのは大げさかもしれない。
 けれど、いろいろなプレッシャーがみぞおちのあたりに押し寄せて、私はゴクリと唾を飲んでしまう。
 建物に入ると、管理を任されている七十代くらいの小柄なお手伝いさんが出てきて、にこにこと挨拶をしてくれた。
 朝松夫妻と美宇ちゃんの三人の背中を見送ってから、私と佐倉はその女性──中川さんと、並んで歩きながら打ち合わせをする。
 夜は冷え込むので暖炉や暖房をすぐに使えるよう手入れを済ませてあること、ワインセラーにワインを入れてあること、食事の用意は明日の朝食分まで済んでいること、大広間のピアノは調律済み、などなど。
「あの、私がお願いしていたものは」
 実は今夜のプランのために、私が特別にお願いしていたものがある。
「もちろん、抜かりないです」
 右手にOKサインで、中川さんは教えてくれた。どうやらとても有能なだけではなく、おちゃめな人のようだ。
 夫妻の思い出の別荘は、中に入ってみると、洋館というだけあって天井が高く、年数を重ねた空間のにおいがした。
 中川さんの案内で、すずらんの形のランプシェードに、オレンジの光が灯った赤い絨毯時期の廊下を進む。
 途中で夫妻や美宇ちゃんとは、別行動になった。
 私と佐倉は中川さんに連れられ、建物内のつくりや動線を確認した後、女中部屋──台所奥の、使用人用スペースへと荷物を運び込む。
 使用人向けのスペースは当時の日本人の体格に合わせて作られているので、鴨居の位置がかなり低く──佐倉が頭をぶつけてしまったのは、可愛そうだけれど仕方のないことだ。
 佐倉が持ってきた衣装ケースの中には、給仕用のブラウスやベスト、エプロンが入っていた。
 それぞれ着替えを済ませたら、つい最近まで働いていたカフェとそう変わらないスタイルになった。スイッチが切り替わったような気持ちだ。
──さて。
 ちかごろの「秋の日はつるべ落とし」な日の落ちの早さは、ここ軽井沢でももちろん変わることはなく、あっという間にディナーの時間になった。
 中川さんが用意したお料理ははっきり言ってレストラン顔負けだった。
 大きめのシンプルなお皿に品よく盛りつけられたそれを、前菜から順番に、頃合いを見計らって食堂に運んでいると、本当にレストランで働いているような気分になってくる。
 ワインのサーブは佐倉がこれまた器用に、本物のスタッフみたいは手さばきでこなしてくれた。
 それを横目で確認しつつ、私はお料理を運びながらちらちらと三人の様子を確認する。
 朝松夫妻も美宇ちゃんも、おしゃべりに花を咲かせながら、軽井沢の素材で作られたお料理を楽しんでいるように見えた。
 食事の後は大客間──サロンに移動する。
 テーブルと椅子の横にある暖炉の炎を見て、美宇ちゃんは歓声をあげ、修平さんは目を細めた。
 そして環希さんは私を見て頷く。
 どうやら、もう間もなく作戦が開始となるらしい──そう考えたら、にわかに緊張してきた。
 ごくりと唾を飲んでいると、私の横に佐倉が音もなく並ぶ。
「正念場だな」
「はい……」
 佐倉の言い方は正直に言って、さらなる緊張を誘うものだったけれど、逆に勇気が湧いた。
 仕掛けるのは、私一人ではない。佐倉もいてくれるし、美宇ちゃんもいる。
 顔を上げると、サロンの中央にあるピアノの前に立っている修平さんの、すらりとした後ろ姿が目に入った。

 
 
 虎澤百貨店の若者二人──あやみちゃんと佐倉君は、とても良い働きぶりを見せてくれた。
 いまこの別荘を所有している人が雇っているという中川さんも、気働きが素晴らしい。
 食事は美味しかったし、久しぶりに家族全員でゆっくり話せた。
 暖炉の前でホットワインをいただきながら次は、そう──「思い出のテラス作戦」だ。
 既に美宇が動いていて、修平さんをテラスに誘導してくれている。
 何気ない様子で「おとーさん、テラスってどこ? 見に行きたい」と訊ね、修平さんと廊下へ出て行った娘の背中を頼もしく思いながら、私はスマートフォンに目を落とした。
 この後の連携は、メッセージアプリで確認し合って、タイミングを窺うことになっている。
 美宇からは既に「テラスに配置してきましたー」と、メッセージが届いていた。
「えっ、もう?」
 テラスに配置してきました、というのは、「飲み物を取ってくるから待っていて、と理由をつけて修平さんをそこにとどまらせている」という意味だ。
 こんなに気持ちが緊張するのは、いつぶりだろう。 
 立ち上がるのが怖い気がしたけれどとりあえず、「了解しました」とメッセージを返す。
「えーと、じゃあ、うん。行きましょうか……」
 ふわふわした気持ちで、私は席を立つ。
 廊下へ続く出入り口にはあやみちゃんが立っていた。
「ご武運を」
 可愛い顔に似合わない、戦国の武将のような厳かな言い方で、あやみちゃんは言った。
「『例のもの』は、タイミングを見つつ、佐倉が食堂のテーブルの上に置いておきますから」
 あやみちゃんは片手にスマートフォンを持って見せた。
 どうやら、こっちはこっちというか、あやみちゃんは同僚の佐倉君と連携しているらしい。
 頷いた私はきっと、情けない顔をしている。
「緊張してきちゃった……」
「大丈夫です。楽しんでください」
「ありがとう」
 絨毯敷きの廊下を進み、階段を降りる時には、ドキドキしながらそうっと足を進めた。
 この場所が一番、音が響きやすい場所なのはよく知っている。だから、可能な限り気配を殺して。
 玄関ホールから、誰もいない食堂に足を踏み入れて──窓の外にテラスの柵が見えた時、指がわななきそうになる。
 この気持ちには、覚えがあった。
 修平さんと二人で、はじめて一緒に出かけた時の待ち合わせで。
 結婚式の、バージンロードへ続く扉の前で。
 見つけて欲しくない。でも、早く会って話したい。それと同じ気持ち。
 一度立ち止まって、呼吸を整え、また歩いた。
 長いテーブルをはさんで向かい合った椅子たち。その一番奥の席に、銀のトレーに置かれた透明の瓶ビール──飲み口にくし切りのライムが詰められた、コロニータ・エキストラがあった。
 これは彼にプロポーズを受けた時、未成年だからとオレンジジュースしか飲ませてもらえなかったことの意趣返しをしたくて、用意してもらったもの。
 今度は私が彼の背中に声をかけたくて、考えたサプライズ。
 結露して薄くくもったコロニータ・エキストラの瓶を見てある思いに駆られ──私は口角を上げた。
 結婚してからずっと、抱いてきた思いがある。
──修平さんが音楽の道に進まず、私と結婚してくれたのは、彼が優しいから。
 これが頭をよぎったら、すぐに無視して、にっこり笑ってごまかして、前向きなことを考えるのが、私の掟。
 ふぅ、と息をついて、前を見る。もう間もなくだ。
 テラスへは席の後ろからすぐ、外に出られるようになっている。
 どうかこちらに背中を向けていますように、と願いながら、私は足を踏み出した。
「え」
 修平さんの姿が見当たらない。どこに──もしかして、失敗? 何か行き違いがあったのだろうか?
 混乱しているうち、背中に声がかかる。
「振り向かないで」
「──!」
 驚いて、肩が跳ねた。
 修平さんの声が、後ろから。
 作戦を失敗してしまった──と思ったのは一瞬で、すぐに言葉の意味に気が付いた。
「あ……」
「──三秒数えて、こっちを向いて」
 二十年前と、同じ場所で、同じ言葉で、同じ立ち位置。
 すべてを理解すると、胸の中の芯が熱くなって、涙がこみあげた。
 彼は、修平さんは、二十年前に私にしてくれたサプライズを、もう一度してくれようとしている。
 言われたとおりに三秒数え、振り向いた先に、彼は柔らかく微笑んで立っていた。
「……私の方から仕掛けたかったのに」
「これは僕の専売特許だよ」
 そう言って、修平さんは私を抱きしめた。
「二十年、ありがとう。あまりかまってあげられなくて……本当にごめん」
 私は頭を横に振る。
 彼は私の父に認められるため、音楽を捨てた。
 だから私は、彼の優しさにつけこんで人生をゆがめてしまった気がして、申し訳ない思いでいっぱいで。
 償うことと、感謝の気持ちを伝え続けることは、とにかく欠かさないようにしながら、年月を重ねて。
 見返りなんて求めちゃいけないし、もちろん幸せなはずなのに、苦しくなる時もあって。
 そんな折、出会ったのがあやみちゃんだ。
「考えること」から少し離れたかった私は、外商を頼ることにしたのだ。
「ごめんなさいは、こっちのセリフよ。申し訳ない気持ちでいっぱいなの」
「僕が音楽をやめたのは、何度も言うように、才能の限界を感じたからだ。結婚したことが理由なんかじゃない」
 こういう話も、なかなかする機会をもてなくてごめん、と修平さんは言い、抱きしめてくる腕に力が入った。
「……あなたは優しいから、私と一緒にいてくれるんだと思ってた」
 そう言うと、修平さんが驚いた気配がして、顔を上げた。
「変なことを言う。僕は好きじゃない人と結婚するような聖人じゃない」
 ああでも、と修平さんは続ける。
「君が誤解をするのも仕方のないことだ。僕はずっと、認めてもらえるように必死だったから──って、言い訳みたいだけど」
 情けなさそうに笑って、修平さんは真剣な顔になる。
「今日、役員人事についての話し合いが内々であった。春には僕が本社の社長職に就く」
「……!」   
 私は思わず顔を上げた。
「上野で腐りながらコントラバスを弾いてた、あの情けない僕が。プレッシャーでしかたない」
 朝松の跡取り候補は、朝松の家に入った彼だけではない。
 私の親戚筋の男児や、従姉妹がむかえた婿が候補として数えられる中、自らが選ばれるために修平さんがした苦労はいかほどのものだったか、私はもっと理解しなくてはいけない。
 修平さんは、「だから」と言って、いま一度、私を抱きしめた。 
「これからも忙しくなるけれど、気持ちが変わらないことだけは約束できるから、一緒にいてくれるかな」
──そんなのもちろん、OKに決まっているじゃないの。
 そう答えようと顔を上げた時、食堂に光が灯った。
「結婚ニ十周年、おめでとー!!」
 同時に響いたのは、底抜けに明るい声だ。
 美宇に連射モードのスマートフォンを向けられた私たちは、笑いながら食堂のなかへ戻った。

 食堂の中、長テーブルの端、一番上座に美宇ちゃんが座って、脇をかためるように朝松夫妻が向かい合って着席している。
 私と佐倉は壁側に立ったまま、待機していた。時間が時間なので、中川さんには帰ってもらっている。
「あのね、今回の軽井沢一泊プランは、実はパパの案なんだよ」
 美宇ちゃんが種明かしをすると、環希さんが「!」と目を瞠って、そのまま私の方に顔を向けた。 
「それ! あやみちゃん! 一体どういうことなの? 今回の軽井沢のことはあやみちゃんが考えてくれたんだと思っていたから、もうびっくりよ」
「あ、えーと」
 もごもごしていると、佐倉に軽く背中をたたかれた。横を見たら、頷いている。
 洗いざらい話してしまえ、ということだろう。
「ええと。私が考えたのは──記念パーティーのプランを、すべて修平さんに考えていただく」ということだったんです」
 環希さんが目を丸くする。
「──どうして、そう考えたの?」
 問う声は、震えている。瞳には、涙の膜が張っている気がした。
「お二人の馴れ初めをうかがって、修平さんがお二人のご結婚以来ずっと、お忙しくされていたのではないかと考えたからです」
 そう、修平さんは、とても忙しい方なはずだ。
 朝松家は、企業の創業家では珍しくない「娘婿を将来の後継者候補と考える」家。
 その娘婿として迎えられた修平さんは、学生時代は音楽を勉強していた。
 つまりはまったくもって畑違いの分野で、のちの後継者となるべく働かなくてはならなかった。
 その日々はきっと、毎日の研鑽が求められるものであっただろうし、そのための時間はいくらあっても足りなかったのではないだろうか。
 まして二人が駆け抜けた平成という時代は、令和になる間際まで、昭和に引き続き「仕事こそが至高」の精神を持つことが称賛されていたことは、私のような若造でも知っている。
 おそらく、修平さんが環希さんや美宇ちゃんのために持てた時間は限られていたわけで。
「だからこそ、今日この日の過ごし方を、修平さんという、環希さんが愛してやまない旦那様がみずから、環希さんのためだけに何かを考えたり、選んだり、時間を使って。それが環希さんがときめくことだと思ったんです」
 私が言い終わると、美宇ちゃんが両手を腰に当てて、ふんぞり返る。
「あやみってぃとオヤジの連携には、あたしが協力させてもらいました」
 そして膝の上に両手をそろえ、にっこり笑って続けた。
「改めまして。おめでとう、ふたりとも。これからも仲良く歳を重ねてください」
 この言葉に、修平さんと環希さんは「ありがとう」と穏やかに微笑んだ。
 

 別荘を後にして、駐車スペースへ向かっていると、先を行く佐倉が振り返った。
「玄関の、照明アートの話はしなくても良かったのか」
「ああ、それは」
 佐倉が行っているのは、東京の朝松邸の玄関、その天井にあった照明アートのことだ。
 お家を建てる時、修平さんが特別に作ったというそれを、最初私は「素敵なアート作品」としてしか見ていなかった。  
 こめられた本当の意味が分かったのは、事務室で佐倉と打ち合わせをしていた時だ。
 お客様を取り巻く環境の中で見えたもの感じたことから、サービスを考える。これを実行しようと、思いつくまま私が紙に書いた照明アートの図を見て、佐倉は言った。
『これはおそらく、春の大三角形──星空だ。星の配置、頂点の星が濃い色をしているのを見る限り、まず間違いないと思う』
 目が白黒する思いだったけれど、言われてみると、中学の時に勉強した理科の知識がよみがえってくる。
『──これ、アルクトゥルスとスピカの夫婦星ってことですか?』
 思いついた時には、頭の中がチカチカした。
 春の大三角形を構成する三つの星のうち、アルクトゥルスとスピカは、夫婦の星と呼ばれている。
 その夫婦星を、自宅の玄関の天井に、他でもない修平さんが。
 その事実がつながったことをきっかけに、私は修平さんに今回の計画をお願いすることにしたのだった。
 だって、夫婦星を自宅の玄関に特別に作ってもらうって。その愛情は、並大抵のものではない。だからきっと、環希さんのために、素敵な案を考えてくれるに違いないと思った。
 でも、夫婦星の話じたいは。
「環希さんや美宇ちゃんに、私が明かすのは、気が引けるかなぁと。そう思ったんです」
 きっと、びっくりして、喜ばれるとは思うけど。秘密は秘密のまま、残っていたって良いと思うのだ。
「なるほどな」
 そう言って、前を向いた佐倉の背中を見て、環希さんが修平さんの背中を好きになったという話を思い出す。
 私にもいつか、背中を好きになれる相手が現れてくれると良いな、なんて考えていたら、視線に気が付いたらしい佐倉が振り返って、目が合った。
「なに?」
「いいえなんでも」
 説明のしようがないので、笑ってごまかす。佐倉は怪訝そうな顔をしてから、前を向いて歩き始めた。
 あたりには霧が出ていて、夜の暗さはいっそう深かった。
 今日は良いことがたくさんあったから、気持ちがとっても晴れ晴れとしている。 
 佐倉も同じだと良い。私は歩きながら、そう思っていた。


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