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どちらにしたって川の流れはそれ以上
年末がなんだ。
年始がなんだ。
なぜわざわざ区切るのだ。
そのために仕事はどうしても押せ押せになるし、職場の大掃除まで入ってきて、ますます時間がぎゅうぎゅうで。
新しい年が来るからと、何かと買い替えたり買い足したりで出費も増える。
今年は特に夫の収入が不安定で、しかも極端に少なく、私のゆとりはほとんどなくなり、かなり苦しい目にあった。だから、やっともらえた私のボーナスを使うのも癪に障って、いちいち出費を計算し、窮屈な思いをしている。
別に区切りはいつだっていいし、ましてやきちんと区切らなければいけないものなんてないのではないかと自問自答しながら、それならやらなければいいのに、結局気づくと片付け(不用品の廃棄)に邁進していた。
それは私が年中やりたくてしかたなかったことだからだ。
ようやく時間が与えられたからだ。
しかも、なぜかある時期よりもものすごくスムーズに取捨選択ができている。今だ、と思った。
年末だからではない。
なんて言い訳する必要もないのに、何をジタバタしている。
年末がなんだ。
そして、年が明けた。
できるかぎり、何もしないで過ごそうと思った。
でも、近所の義母と、関西に暮らす義姉と姪がやってきた。
ここ数年の恒例となっていたから、予想はしていた。
食卓は、私が作ったもの以外に買ってきてくれたおせちも並んで豪華になったし、娘や息子にお年玉をいただいたり、100均の景品をかけたビンゴゲームをしたりと、それなりに賑やかに過ごした。
元旦の日中から夕食、そして2日の午後の時間、義母たちは我が家にいた。
彼らが帰ってから娘が一言。
「おばさんはよくしゃべるね〜」。
そう、とにかくとりとめもなく雑談が止まらない。
私も家では割と喋る方だと思っていたが、こういう時、やはり相対的にそうでもないのだと気付かされる。
別に悪いことではない。愚痴でもないし、楽しそうだから。
しかし、無口は夫はほとんど参戦せず、認知症の義母も10分に一言返せばいい程度の切り返し具合なので、基本、話相手は私だ。
合間こまにひたすらお茶を追加する。
なかなかに消耗した。
そもそも、今朝は、夫から突然おかしないちゃもんをつけられ、私は完全にキレてしまい、口を聞かなくなった(悪い癖)。
近所の神社への初詣は、子どもたちと私と愛犬一匹で出かけた。
家族4人で行かない初詣は初めてだった。
神様は新年早々みっともないことをして怒るだろうか。
今年を幸せに過ごすことができるだろうか、なんて不安が頭をかすめる。
手を合わせる時に何を願えばいいのか神社への道すがら悩みつつ、こういう時ばかり半端な信心深さを見せる自分が恨めしくなった。
年始がなんだ。
そういうものがあるから、親戚にも神様にも気を遣う。
一年に一度、唯一立ち止まれる気がするひとときなのに。
だから、大事にしたいのに。
でもそれは、年末年始だからなのだ。
除夜の鐘が鳴り、年が明けるとみんなで祝う。
一旦、世界中が喜びに包まれる。
そういう区切りがあるから、私は立ち止まる(錯覚をする)ことができるのかもしれないとも思う。
紅白あるからそれまでになんとかしよう、とか。
さして興味もないのに最後まで観てしまったりして。
結局、年末年始のおかげじゃないか。
私達は単なる繰り返しでは生きていけない。
身体の細胞は、だいたい一週間ですべてそれまでとは違う細胞に入れ替わっていると聞いたことがある。
代謝することが生きていることそのものなのだ。
切り替わる時が必要なのだ。
日々奮闘し、一喜一憂し、反省や後悔をし、それでも希望を持って前に進むには、新しい明日が必要なのだ。
年末年始は、世の中としてのその最たるものかもしれない。
悔しい。
私は、誰とも違わない単なる社会の生き物でしかなかった。
その流れに多かれ少なかれ、良くも悪くも影響を受けている。
ちっぽけなものだ。
自分で、自分だけのために好きにできるだなんて、100年早いことなのかもしれない。