もっと声が聴きたくて
診察室で待っている間、ぼんやりとその部屋を眺めていた。
突貫工事で作られた発熱外来の診察室。
そこは、私の暮らす街での唯一の診療所で、コロナ禍に新設された部屋だ。
今日は、熱はなくても流行り病の可能性があるとして、通常の待合室には通されず、この人気のない診察室に呼ばれた。
先生が来るまでの少しの間、小さな部屋をなんとなしに眺めてみると、間に合わせの割には、診療所らしく綺麗な内装がほどこされていた。
小さなファンヒーターが置いてあり、ホコリも被っていない。机と椅子が2脚。診察用の寝台もある。
机の上には、あまり使い込まれていない雰囲気で、バラバラと診察に必要なものが置かれていた。
血圧計、医療系のマスクか手袋類の箱、聴診器、体温計やペン。検査キットの説明書なんて、机に大きく広げられたままだった。
壁際の端には、唐突に骨盤の骨格標本。なぜ床に?そもそもこの部屋に?
普段の診察室と比べれば、ずいぶんと簡素で整頓もされていないが、これは誰がどんな風に並べて、ここに落ち着いたのか。いろいろと人の動きを想像してしまう。先生は日替わりだし、看護師さんも限定的でよく知った顔だ。
もちろん、置いたのは診療所のスタッフによるものだが、その無造作なようで、必要なところに最低限で配置されているそれらのモノたちが、ここにいた人、使った人、掃除をした人、そうした人たちの気配を残しているのがなんともいえず、私をほっとさせた。
こういう誰かのいた気配を感じるのが嫌いじゃないと思った。
声にならない声。
伝えようとしているわけでもなく、にじみ出るように伝わるメッセージが想像力を掻き立てる。
モノが新しいから、古いから。そういうことでもない。一度誰かが意図を持ってそれを使い、置いたなら、すでに何かの声がしている。
そう、どちらかというと、意図がある方がいい。
例えば、家族で使う居間などは、多様な人が意図があったり、なかったりで、置かれているものからの声が聞こえて来にくい。
まるでただ投げられているだけ。
そこにある必要がないから、大切にされているように見えないのだ。
と、自分の所作を反省もする。
なんとなくそこに置いてはいないか。
モノが然るべきところに返っていないのではないか。
つい面倒くささが先立って、モノの立場を忘れているのではないか。
家でも、それぞれのモノたちが気持ちよく、意味ありげにそこに存在するようであってほしい。ちゃんと必要な場所に収まってさえいれば、モノが多くてもきっと快適で心地よいだろう。
そうすれば、自分もそこにいることがきっと好きになるに違いない。
そんなことを大事にできるゆとりが本当はほしいのだと思う。
とかく、その後先生は、ふいにやってきて、椅子にも座らず、無言で指先で血中酸素濃度か何かを測る機器を私に差し出した。反射的に指を突っ込むと、数字を見るやいなや『じゃあ、痰を出しやすくする薬出しておきますね』といい、にこやかに風のごとく立ち去っていった。30秒かかったかどうか。
人生、最速の診察。
…。
この部屋の気配。
そしてメッセージ。
こういうことだったのか。
しばし呆然としたのは、いうまでもない。