テュービンゲン:近代日本医学の祖、ベルツ博士の学んだ地
こんにちは。本日は、ひとけんドイツ支部です。Tuebingen(テュービンゲン)よりお届けいたします!筆者は薬学部卒のバックグラウンドで博士号取得した後、昨年秋よりテュービンゲン大学(University of Tuebingen)の研究員(Research Fellow)として、創薬研究に従事しています。
さて、「テュービンゲン」という地はなかなか聞きなれないかと思います。人口はたった7,8万人の小さな、そして辺鄙な街ですが、魅力も多いです。
ドイツの中でも、世界大戦の被害を受けなかった地として、非常に歴史のある建物が多い街並みで観光地としても鼻が高いのですが、実はここは大学都市。テュービンゲン大学は、ドイツ最古の大学の一つで、創立は1477年に遡ります。
ヨハネス・ケプラー(ケプラーの法則で有名な天文学者)や、アロイス・アルツハイマー博士(アルツハイマー型認知症を発見・提唱した精神科医)、ゲオルグ・ヘーゲル(法の哲学・精神現象学・歴史哲学講義などで知られる哲学者)などが歴史的有名人物です。きっとご存じの方がおられるかと思います。
医学的に世界では(地味に)名が高いテュービンゲンの地ですが、近代日本医学との意外な関係をご紹介できればと思っています。医療に触れておられたら、ベルツ博士の名前をご存じの方も多くおられるかと思います。
君によりて 日本医学の 花開く
テュービンゲン大学医学部附属病院のキャンパス内。
内科病棟の方へ歩いていくと、Mensa(学食・カフェテリア)のそばに、日本人には見慣れた(しかしドイツでは見慣れない)日本庭園に見立てた景色が広がります。
よく目を凝らすと、灯篭のそばの石碑には、日本語が刻まれています。
これは、水原秋桜子(俳人、東大医学部出身)による俳句だそうです。【1】
この石碑は、ベルツ博士の日本における業績を称えて置いてあるとのこと。博士はこの地で医学を修められました。そして、ベルツ博士はドイツの近代医学を導入して日本に西洋医学の基礎を持ち込んだ人物。まさに日本における「近代医学の父」なのです。
なお、この俳句、味わい深いです。というのも、ベルツ博士の妻は日本人。そしてその名を戸田花子(妻)というのです。きっと、「花開く」には彼を支えた花子さんとの出会いのこともかけているのでしょう。
水原秋桜子と日本近代産科学の発展
余談ついでに。俳人、水原秋桜子も医学部ご出身ということで非常に教養の高い人物だったと伺い知れます。俳人としては、あの高浜虚子に師事されていたとのこと。
しかしWikipediaによると、秋桜子は代々産婦人科を経営する病院の家庭に生まれたとのこと【2】。俳句に専従する前はそれもあってか、産婦人科を専門としておられ、現・昭和大学の初代産婦人科学教授となるなど、医業でも多くの貢献をなされておられます。
そんなこともあり、京都の玉樹寺(ぎょくじゅじ)には、賀川玄悦(母体での胎児の正しい体位が後ろ向き頭位であることを世界ではじめて発見した名医)のお墓とともに、水原秋桜子の句碑が立てられています【3】。時は違えど、日本近代産科学の発展に貢献した二人に縁のあるお寺ということで、興味のある方にはぜひ訪れていただきたいものです。
日本近代医学の発展とお雇い外国人
さて、ベルツ博士の話に戻ります。
べルツ博士は1866年にチュービンゲン大学医学部に入学。その後1869年にライプチッヒ大学医学部に移り、1875年ライプチッヒ大学入院中のドイツ留学生、相良玄貞と出会ったのを契機に1876年(明治9年)に日本政府の招きでお雇い外国人として来日(26歳の若さで!)【4】
来日とともに東京大学医学部の前身となる東京医学校に着任したベルツ博士はなんと、26年間もの間、内科の教師として教鞭をとることになります。
平成17年の東大病院だよりによりますと、任期付きのお雇い外国人として来日していた同じくドイツ出身の陸軍軍医のミュラー・海軍軍医のホフマンらが立ち上げてきた日本の新たな医学教育システムを引き継ぐ形でした【5】。
どうやら明治初期の東大医学部には医学部に多くのお雇い外国人がいたとはいうものの、多くは任期で帰国。その後は、ベルツ博士に加え、1881年(明治14年)に外科担当の教師として来日したスクリバの二人が東大病院の内科と外科の双璧を担うことになったようです。二人は20年以上もの間東大病院での臨床教育を立ち上げてきたいわば創設者といってよいでしょう。二人の胸像は今でも東大構内に見ることができます。
ベルツ博士の扱った分野は非常に多岐に渡り、生理学や精神医学から内科、寄生虫症、感染症の分野にまで及んだそうです。
さらに東大病院を退職後は、皇室の侍医を3年間務めた他、大隈重信、陸奥宗光、板垣退助、岩倉具視、といった明治政府の高官やその関係者の診療にもあたったそう。
ベルツが近代日本医学の父と言われるだけの所以です。
ベルツ博士の素養:温泉と武道の普及
さて、ベルツ博士は医学分野にとどまらず、広い教養を博しておられ、晩年は人類学・考古学といった分野においても研究をなされたと聞きます。ベルツ博士はまた、日本の武道や温泉治療を取り入れることも推進されていたそう。
①武道の普及
まずは武道について。
nippon.comの記事を引用します【6】。
そういえば武道といえば、筆者がドイツに着いた日に利用したタクシーの運転手がKarate(空手)をやっていると聞きました。当時は「そんなにドイツで武道って人気なの?!」と知らず知らず驚いていましたが、テュービンゲンの街にも子供の空手教室が見られるなど、結構日本の武道が今でも人気を博しているように実感しています。
②温泉の効用の普及
次はベルツ博士と温泉の関係について。群馬県の草津温泉を再発見し、世界に対して紹介したのもベルツ博士です。
再びnippon.comの記事を引用します【6】。
酸性泉、高温温泉浴などについての研究成果を学術雑誌に発表することで世界に草津の名を広げたほか、日本政府にも温泉治療を指導すべきと説き、明治23年(1890年)には、草津に約6000坪の土地と温泉を購入して温泉保養地作りを目指すなどしたそう。
現在の草津温泉にある「ベルツ通り」はもちろん彼の名にちなんだものです。そのほか「ベルツ記念館」「ベルツ記念碑」などもあるので筆者もいつか帰国の際は草津温泉に訪れたいと思っています。
ベルツ賞の誕生と、学術の樹
さて、医学研究の話になりますが、筆者は「ベルツ」の名前を「ベルツ賞」というベーリンガーインゲルハイム社による賞与の名前で存じ上げていました。この賞の設立について。
ベルツが最後に来日したのは、1908年(明治41年)。最後の来日時にベルツ博士は、東京大学医学部に5千円を寄付(さらに実は没後も遺言により1万円の寄付をしている)。これが理学療法と優秀な研究者に贈る賞の基金となりました。
こうしたこともあり、後の1964年、日独の歴史的な関係を回顧すると共に、両国の医学面での交流をさらに深めること、そして、優れた医学研究・論文に対して賞を授与することを通じて医学分野の発展に真に寄与する目的でベーリンガーインゲルハイムから「ベルツ賞」が設立されました。【7】
医学の新たな未来の創造に貢献したと称される研究に贈られるもので、ベルツ博士の志は今でもこうした文脈で医学研究の世界で受け継がれているのです。
最後に、ベーリンガーインゲルハイム社のベルツ賞のホームページに掲げられているベルツ博士の素敵な言葉を引用します。【7】
短期的な研究成果ばかりを追っていては出てこないような言葉だと思います。
1本の木が育つまでは30年以上は待たないといけないでしょう。学術の樹を国全体として育むことのできるような、器の大きな社会環境ができてくることとを願います。それと共に筆者もまた、そのような長期的な視座もち、日々の行動へと落とし込んで生きていけるような研究者でありたいものです。
COI
筆者に開示すべき利益相反はありません。
References
全てのURLは2023年2月23日現在閲覧済
[1] http://yamagami-clinic.jp/index.php?ベルツ
[2] https://ja.wikipedia.org/wiki/水原秋桜子
[3] https://www.ishigaku-sampo.com/2017/10/31/35-京都に水原秋桜子の句碑を訪ねる:玉樹寺に向/
[4] https://www.boehringer-ingelheim.jp/belz-prize/introduction/chapter-2
[5] https://www.h.u-tokyo.ac.jp/cooperation/dayori/__icsFiles/afieldfile/2019/07/04/dayori48.pdf
[6] https://www.nippon.com/ja/column/g00044/
[7] https://www.boehringer-ingelheim.jp/belz-prize
文責:秤谷 隼世(はかりや・はやせ)