境界線を引く

 ここ数日、心が酷く不安定です。
 抑うつになったら、躁っぽくなったり虚無感に支配されて無意識に泣いていたり。本業は忙しくて、仕事中は大丈夫だったのが救いです。

 原因は、小説現代の一次選評です。
 二次落ちしたことは良いのですが(良くないですけれど)、一次を通っているのでいただいた選評が、おそらく酷評といって良いものだったと思います。
 良いことは一つも書いておらず、私への攻撃の意図すら感じるものでした。そのうちネットにも載るはずですので、興味のある方は見られます。

 私は、きっと、その選評を書いた執筆者さんの逆鱗に触れたのでしょう。
 確かに扱っているものはセンシティブでしたので、そういうこともあると思います。
 私は、その選評から強い怒りと攻撃性を感じました。実際、どういう気持ちで書いたのかは知りません。私がそう感じた、という話です。

 そのうえで、私は自他の境界線が曖昧なところがあります。たとえば、私でない誰かが怒鳴られていたら、自分がされたように息が苦しくなりますし、芸能人の自死の報道などは、〝引っ張られ〟てしまうので、意図的に情報を遮断します。

 この原因には、心当たりがあります。
 私は、母親の感情のゴミ箱として育ちました。
 母は、私の父、弟、祖父母、それに仕事関連など、あらゆる悪口や愚痴を私に言い聞かせました。聞きたくないと訴える権利は私にはありません。彼女にとって、それは正当で客観的な批判であり、それに耳を貸さない私が悪く、悪い私は罵られます。
 それは今も変わらず、たとえばテレビに出ている芸能人の美醜やら、自分で選んで買ったものが気に入らないことやらを私に吐き出してきます。やめてと言っても、やはりそれは、母にとっては論理的な意見なので、問題ないのです。これは私の解釈ではなく、本人が本当にそう言っていますから、間違いありません。

 私は、幼い頃から、母の負の感情を詰め込まれてきました。結果、母の感情と自分の感情の境界がわからなくなったように思います。
 母の要望や不満は言われずとも察知し、先回りして解決するか、できなかったときはゴミ箱に徹するか。

 そうしたら、自他の境界線が曖昧になりました。

 幸い恋愛感情は淡白なほうなので、男性に依存することはありませんでしたが、若い頃は他人の振る舞いに過剰に反応し、衝突することが多かったです。相手が別の人を批判していたり、対自分であっても正しい指摘をしていたりしても、私は自分が不当に攻撃されていると勘違いしていたのです。
 このクセは、一定の年齢を超えたら急に薄くなりましたので、今、現実の私は比較的穏やかだと思います。他人への興味をもつ気力すらなくなったからだと考えています。物語を書く人間として、それもどうかと思いますが。

 ただ、境界線は曖昧なままなようで、今回の選評のように、明確に自分に向けられた他人の強い感情(と私が解釈しているもの)には、飲み込まれてしまいます。
 松本清張賞の締切が迫っているのに、選評を読んでから、小説が怖くなり、自作他作問わず読めなくなりました。

 今朝、やっと自作の推敲に戻ることができましたので、少し反応が薄れてきたのだと思います。

 昔のクセが出て、私の考えすぎの可能性はあります。しかし、どうしても、私はあの選評に私への怒り、敵意を感じてしまいます。
 そこまで書かせてしまった私の作品が悪いので申し訳ないと思いつつ、もし本当に選評執筆者さんが怒っていたとしても、それはその選評執筆者さんの都合で、私の感情をどうコントロールするかは、私が決めることのはずです。

 それができないのです。

 結果、私は選評執筆者さんの怒りと私が感じるものに、私は振り回され、現実の生活にまで影響を及ぼしました。
 そもそも、本当に選評執筆者さんが怒っているかも、敵意を持っているかもわからないのに。

 さっき、ふと〝境界線〟という単語が頭に浮かびました。私は、自他の境界線が薄いのだと気づきました。
 それでこの文章をまとまりなく書いています。

 私は、しっかり境界線を意識しないと、きっと生きづらいままです。

 怒っている、かもしれないのは、選評執筆者さん。私がそれをどう受け取るかは、私の自由。
 そこには明確に境界があるはずです。選評執筆者さんと私は同一人物ではないのですから。

 他人の感情を私の解釈のもと、そのまま喰らい続けるのは、しんどいです。
 今後、生きるうえで、〝境界線を引く〟というのは、一つの大きなテーマになりそうです。

 どうしたら、自他を切り離せるのか、割り切れるのか、考えていこうと思います。

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