『串刺しアスタリスク』 - たまには徒然エッセイでも

2020年9月〆切の【第4回 徒然草エッセイ大賞】に応募していたものです。
自身の暗い部分が滲み出ているのがイヤで長いこと仕舞っていましたが、時間を置いて自分から離れてくれたので供養公開しておきます。

お題は『あなたの印象的な「変化体験」を、感想を交えて紹介してください』でした。



『串刺しアスタリスク』


 秋の私は、いつも瀕死状態だ。「ほぼ死んでいる」と言っていい。
 それでも一番好きな季節はと聞かれたなら秋を選ぶのだから、懲りない人間なんだろう。

 学生のうちは、よく日記を書いていた。それが良くも悪くも気持ちのコントロールに一役買っていたことを、当時の私自身もなんとなく理解していたからかもしれない。だから、卒業して一度家に帰ったときも創作を通して書いていたし、就職してからも続いていたほうだと思う。

 けれど今は、書き方を忘れてしまった。

 書かなくなったのは、いつだろう? あるいは、書けなくなったのは。
 思い返してもなかなか思い当たらない。何らかの変化について考えるときはいつもそう。何かがあったから変わった、なんて「劇的な出来事」はそうそう無い。


 変化っていうやつは、じわじわシャツの襟首に染みていく皮脂のようなものだ。新品のときが0で、黄ばみと認識したときが1。1までに通ったはずの小数点以下は、意識することなく切り捨てている。誕生日になった途端に1増える年齢がいい例だ。

 それでも10分の6や8だったろう頃を突き詰めて考えると、結婚だ妊娠だ退職だ悪阻つわりだ挙式だ出産だ――それら全てが詰まっていた2013年が変わるキッカケとして大きかったことくらいは嫌でも分かる。

 どちらかといえば一人の時間が昔から好きで、だから一人でも黙々とできるゲームや読書が趣味だった。それなのに、結婚から間もなく妊娠・出産となって、そう簡単には一人になれなくなった。


 子どもは特別嫌いでもないが、特別好きでもない。自分の子は憎らしく思ってしまうのに、よその子は素直にカワイイと思えるのだって、単に苦労をしているかどうかの差でしかない。

 手がかかった分だけカワイイ、と世の先輩親たちは口を揃えて言う。でもそれは喉元すぎてからじゃないと思うことすらとても無理だし、「苦労に見合う成長を子どもがした」と自分を慰めるために記憶を美化補正しているだけに違いない。

 私だって、初めのうちは「なんとかなるさ」と前向きに考えていた。あまりの眠れなさにイライラの強かった授乳期でも 「カワイイ」と写真をたくさん撮り、黒い考えを上書きするように繰り返した。「よく思えるね」なんて言われても、それで本当になるならと盲信するしかなかったのもある。


 そんな私も今年で「母7歳」。子どもから離れて一人になれる時間が増えたことで、乖離していたあの頃の自分に少し戻れたような気がする。

 こうしてエッセイを書けるだけの考えごとも多少は落ち着いてできるし、考えたくなくなればゲームに没頭もできる。やりたいけれど諦めたアレコレに手をつけて、なりたかった自分だって確認していける。

 母には「子どものために趣味を捨てろ」と散々言われた。でも、「そうしてきたけど捨てたくなかった」と漏らしていたのを私は知っている。だから、自覚なく同じ道を通らせようとするのもまた自分を慰めるためのことなんだろうと聞き流していたはずだった。

 インターネットに親しんだ世代の私が「友人」というものに対して男女の意識を持っていないことを理解されず、親友であろうとも異性ならば縁を切れと言われたりもした。


 変わりたくなかったのに、気がつけば変わってしまった私がいる。

 嫌なこと、辛いことに串刺された姿はさながら、輝かない〈*:アスタリスク〉。引き抜くのも一苦労だし、癒えるのにも時間がかかる。
 そういった望まない1に気付いてしまうのは、いつも秋で。だから私は秋が嫌いだった。

 けれど同時に好きな季節にも選ぶのは、その空気や色や音、そういったものの眩しさが私を救い、生かしてもくれるからだ。この先も、それだけはきっと変わらない。


 「いつかの私」を0として、「なりたい私」を1とする。「なりたかった私」を拾い集めて、今はいったいいくつだろう? 10分の0から1へ、2へ3へ。思い描いたとおりに変わっていくのは難しい。

 昔の自分を確認したり、変わっていくことをいつまで続けられるかは分からない。きっとまた離れてしまうし、我が子を素直にカワイイと思える未来もいつかは来るんだろう。

 意識できない小数点以下は今、どのあたりを揺れ動いているのやら。私にとっての「変化」は、そう、「曖昧模糊」だ。



* あとがき めいたもの

「エッセイ」ってなんだろうなぁ。と、そんなことをいつも考えます。

 日記とはどこか違うし、誰かに見せるという意味では交換日記に近いのかもしれないけれど、どうもそれも違う。日誌ほど堅くもなければ、ノンフィクションほどエンタメでもない――

 そうして一周ぐるりと回ったあとで、「エッセイはエッセイなんだ」なぁんて結論づけてはまたぼんやり過ごしています。


 このエッセイを書いた当時は「お題に沿っているか?」「そもそもエッセイになっているのか?」をとても気にしていました。
 公募だから当然なのですが、こうして公開を思い立った今読んでも思うことは変わらないようです。物書きのサガかしら。

 内容に関してはnote冒頭に書いたとおりで、明るいものではありません。
 タイトルに至っては『串刺し~』だなんて物騒なものですが、公開前に読んでいただいた方に言われるまでは「シャレた名前を考えた」と信じていたことも、ここに供養しておきます……くすん。


 他の人がどうかは知りませんが、私にとってのエッセイは「感情であり詩であり哲学」で、それを書くことは【心の深いところを切り出す行為】なのだと思います。

この感情は私のものだ。
誰かを介して語られたくはない。

 わりと強くそう考えているくせに、よくエッセイ公募になんてチャレンジしたな……丁度語りたくなるタイミングだったのでしょうね。


 さて。全っ然まとまっていない後書きを失礼しました。せっかくなので、日頃思っているちょっぴりクサイことを末筆に残して締めましょう。

あなたの感情には、
あなた自身の言葉で
名前をつけてあげてください。

―― それでは、き日々を ――

オヤツに少し使って、あとは製本貯金してます。書き溜めた短編小説を冊子にまとめるのが目下の夢なのです(*´꒳`*)