なんで私が?の言葉のモヤモヤ
「なんで私が?」
って言葉に違和感を覚える。
わたしも同じように思ったことがある。
でも、他の人が言っているのを聞いて、じゃあ他の人だったら良いって事なのか?と思った。
そうではないはずだ。
だが、「なんで?」と思い、自分よりも幸せそうな人などを見ると、自分が一番恵まれていないんじゃないかと感じたことがあった。
とすると、他人にも不幸になって欲しいということか?というと、そんなことちっとも考えていない。
人の不幸なんて望んでいない。
あの微妙な感情は何だろうか。
人はひと。自分は自分。
人と自分自身を比べて、自分で自分をジャッジするのは、自分へのいじめだ。
一見、幸せしかないように見えても、その奥にどんなことがあるのか分からない。
その人だけの世界があるのだ。
幸せな人が周りにいたのなら、それは自分もその状態になれるということだ。
その状態になりたいのなら、そこに向かって生きていけばいいのだ。
ないものに目を向けるのではなく、あるものを見ていこう。
何の見返りも求めずに、毎日、太陽の光はわたしの上に降り注いでくれている。
わたしは太陽に何も与えていないのに。
空気がある。
与えられているものを数えると、キリがなくなる。
なのに、まだ足りないと想う。
まだまだ…と感じるから人は成長できる。
その反面、当たり前のように与えられているものを忘れてしまう。
感謝を忘れるのだ。
恵みへの感謝と自分の中におこる欠乏感のバランスをとって、今日も「与えられているもの」を数えていこう。
感謝いたします。