短編ミステリー>痛み蟲
はじめに違和感を覚えたのは、姉との電話の最中だった。
「最近大きい発作あって。怖くてさ、眠れないんだ。」
僕より3つ年上の姉は高校卒業と同時に東京へ上京して、2年ほど経った頃から、定期的に電話をしてくるようになった。姉はなんというか………まるで蛍のように繊細で、綺麗な水と澄んだ空気の中でしか生きられないのではないかというくらい、東京の淀んだ空気には耐えられないと電話の向こうでいつも泣いていた。
僕としては、そんな姉が酷くうらやましかった。
僕の両親は俗にいう“毒親”で、普段厳格な父親は酒を飲むと豹変するいわゆる酒乱というやつで、母といえばほとんど家には帰らない奔放な母親だったからだ。まぁ、あんな男と四六時中家に居るのなんて耐えられなかったんだろう。それは僕も同じだった。
そんな親に育てられ……成績も優秀で端正な顔立ちの姉だが、心だけが不安定なまま25歳になったのだろう。
けれど僕はといえば、早々とこんな家を出て行った姉には心の奥で嫉妬すら覚えていた。
とはいえ、
「辛い………」
そう言って泣く度に、なんて言葉をかけたらいいかわからない僕は、
「大丈夫だよ、辛かったら、いつでも話聞くから。」
と言って慰めた。
この日もまた、同じように慰めの言葉を発した時だった。
ムズ………。
喉の奥に、違和感を感じたのだ。
蛍みたいな心が本当に壊れてしまわないように、慎重に言葉を選んだ末、
「頑張らなくてもいいんだよ。今は辛いだろうけど、なんとかなるもんだし。きっと大丈夫だから。」
と言った時。
“だから”の“か”の音を発した時、喉の奥で何かが動いた気がして、思わず咳き込み片手で喉を抑えた。
通話を終えた後、すぐに洗面所に向かい鏡を見て、異常がないことを確認してからうがいをした。
それが一番最初の違和感だったんだ。
それが“見えた”のは、僕が24歳の時。
2年付き合った彼女との会話中だった。
「ねぇ、隼人ってさ、私の事ホントに好きなの?」
「なんで?」
「なんでって……私からLINEしないとそっちからはくれないし、毎回私がデートの日も場所も決めてるし、私が他の男と喋ってても嫉妬したとこ見たことないし、そもそも、好きとか、愛してるとか、言われたことない」
「そうだっけ」
「そうだし!」
そして少しの沈黙の後、彼女は続けた。
「由美に言われたんだよね、一回ちゃんと、気持ち聞いてみたら?って。」
悲しそうな顔はゆっくりと髪の毛に埋もれていった。
僕はそんな彼女を見て、可愛いな、と単純に思った。と同時に、それもそうだったかもな、と。
僕はもしかしたら、感覚の一部が欠陥しているのかもしれない。好きだしきっと愛してもいるけれど、四六時中一緒に居たくはないし、頻繁に連絡だってとりたくない。つまり……空気のようにそこに存在してくれるのが一番いいのだが、そんなこと言ったら怒ってしまうだろうし、そんな風に考えた自分は人間としての欠陥商品にすら思えた。
そして出た言葉は、
「好きだし、大切に思ってるよ。ごめんな。寂しい思いさせて。連絡、こっちからもするし……次のデートの場所、僕が決めるよ。」
「泣かないで。大丈夫だ“か“ら。」
モゾ……モゾモゾ………。
モゾモゾモゾモゾモゾ…………。
「ゲホッゲホゲホゲホ!!」
「隼人? 大丈夫? どうしたの??」
その時、僕の目にはハッキリと見えていた。
黒くて醜い蟲が、僕の喉を破って出てきた所をー。
「うあああ!!」
「隼人!!大丈夫!?ねぇ!!隼人!!」
「見えないの!!? これが!!」
「え? 何のこと?? ねぇ、大丈夫?!」
彼女には“これ”が見えていないらしかったが、僕には手を這って歩いた感覚までがしっかりと伝わっていた。初めて見るような醜く真っ黒い蟲。それが手を歩き体を伝って地面に着地した頃、僕の意識は真っ暗闇に飛んでいた。
+++++++++++
あれはいったい何だったのかー。
病院のベットの上で、薄暗い天井をぼんやり見ながら思い出していた。
あれほど津波のように押し寄せた心拍数も、すっかり落ち着いている。
点滴に視線を落とし、ぽたりぽたりとゆっくり落ちるリズムに安心した時、カーテンが揺れた。
まだ若そうな…担当医の真鍋が常に笑っているような顔を向けて言った。
「検査結果は異状なしでしたので、自律神経の方かもしれません。若い方にはよくあるんですよ。明日また来ていただけますか?無理でしたらいつでも構いません。一度こちらを受診して頂いて。美田メンタルクリニックさんの方に紹介状を書きますのでそちらを受診された方がよろしいかと思います」
「蟲が……」
「蟲?」
「見えたんです。喉から……出てきて。」
「………蟲、ですか。......…そうですね、心の病気である場合、幻覚を見ることもありますが、今はこちらとしてはなんとも言えませんので、メンタルクリニックさんのほうでしっかりと受診されることをお勧めします。もう少しお時間がかかってもよろしいのであれば、これから紹介状を書くこともできますが。」
「あ...…ではよろしくお願いします。」
「わかりました。」
そして、僕はその病院に行かなかった。
++++++++
ことあるごとに蟲は這い出てきた。
母親との会話の時
「お母さんがいなかったらあんんたたちなんて野垂れ死んでたわよ。ありがたいでしょ!いろいろやってあげたじゃない!なんでそんな冷たい目で見るの!!?」
「冷たい目じゃないよ、もともとこんな目だよ。」
「お母さん死んだ方がいいかしら、お父さんもあんなだし……お母さんがいなくなったら、あんた大変よね。」
「そうだね。大変だから、まだ死ぬなんて考えちゃだめだよ。大丈夫だよ。僕はお母さんに感謝してるし。」
友達との会話の時
「もう嫌だ、死にたい……。ねぇ!私じゃないのにさ!なんでSNSでこんなに言われなきゃいけないの!!?……もうどこにも居場所なんかないよ……私...…。ごめんね、こんなこと、言えるの、荻原くんだけだから……。君の彼女の事、悪く言いたくはないけどさ、なんていうか……私も、ショックでさ、荻原君には、言っておいた方が良いと思って……。」
「そっか……。でも由美ちゃん、大丈夫だよ。彼女とはちゃんと話し合っておくから。もしそれが本当なら……。いやでも、ちゃんと話を聞かなきゃわからないからね。」
「ごめんね、荻原君……でも、本当なんだ。」
「うん。でもちゃんと聞かなきゃね、とりあえず。ありがとう、大丈夫だから。」
蟲は「大丈夫」と言う、そのたびに這い出てきた。
僕はいちいち驚かなくなった。
僕が自分を守る言葉は、「大丈夫」になっていた。
大丈夫と言えばみんなが落ち着いた。
大丈夫と言えば僕が救われた。
でも、蟲は消えることなくどんどん湧き出てきた。
僕は病気でも何でもなかったんだ!だって“蟲”は、まぎれもない本物だった。
+++++++++
ある日、僕は電車に乗って、遠くへ出かけてみた。
海の見える風景を辿って、名もわからないような田舎街へと旅へ出た。
静かな駅に降り立つと、潮の香りと春の土の匂いが鼻をかすめた。
それがやけに心地よかった。
少し歩くと、まるで昔、おじいちゃんの持っていた写真で見たような古本屋があって、僕はいったん立ち止まってから、その本屋に入った。
雑に敷き詰められた本の上にハエの死骸なんかもあって、潔癖の人なんかは3秒で立ち去るかもなと思いながら、
【古蟲辞典】
という本に迷いなく手を伸ばした。
その本をペラペラ捲ると、見たこともないような妖怪みたいな奴が沢山書かれており、僕はあるページでハッと息を止めた。
痛み蟲
心の痛みに巣くう蟲。
主に、死が迫るほどの限界を超えた痛みを感じた時に現れる。
痛み蟲は、人間に対し直接の悪さはしないが、その気味の悪さから、古来より忌み嫌われ、恐れられてきた。
もしも痛み蟲が現れたら、一度食うべし。味は美味い。
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