嫌いじゃない(小説ショート)
また髪の毛が落ちていた。
今週でもう、2回目だ。あれほど捨ててって言ったのに。
トイレットペーパーのホルダーには芯が残ったまま、洗面台では歯磨き粉が飛び散っている。
フライパンもお皿も洗っていない。
靴は脱ぎっぱなしだ。
気になっている。目についている。誰が決めたわけでもないルールを守って、生活している。
私が気になるだけなんだから、私が片付けたら済む話なのはわかっている。それでも毎回毎回、私だけが使用人のように掃除や洗濯をしていると、ついつい口走ってしまう。
「ねぇ、また・・・」
あの人は聞いているのかいないのかわからないそぶりで、ケータイに視線をもどした。言ったからといって、何かが変わるわけではない。何も変わらない。私自身、また言ってしまった、という気持ちでいっぱいになるしかない。細かいことばかりを気にしすぎだとわかっている。わかっているのだ。
なにもかも気にならない、どうでもいいと思える性ならよかった。けどダメなんだ。どうしても汚い家は、ダメなんだ。
水曜日の昼間、寒いのにわざわざテラス席で紅茶を飲む友人に言われた。
「その人のこと、嫌いなんじゃん?」
”好き”とか”嫌い”とか、どちらも相手のことをとても意識しなければ生まれない感情で、そういう感情は心のエネルギーを大きく消耗する。私はそこまでの大きな感情を、あの人に向けていたくない。感情を消費するのが、ひどくもったいないのだ。
新学期、初めての学校や会社でいつもよりお腹が空いたり、眠たくなったりしたことはないか。それは感情のエネルギーが大きく消耗しているからにほかならない。一日のうちに消費される心のエネルギーには、限界がある。私はその大事な感情を、ネガティブな方向に、ちっちゃいことに、使いたくない。
だから、私があの人のことを”嫌い”だなんて、考えられない。そんなことあってはならない。あるとしたらそれは、あの人のこと、とことん”嫌い”になるときくらいだろう。