窓
お日様が少し傾いた昼過ぎ、意識の遠くで先生の声が聞こえる。新しく赴任してきた中年男性のゆったりとした低い声は、温かい教室に溶け込んでく。ふわふわと頭の上を漂うようで、薄れていく意識が心地良い。
なんとか持ち上がった瞼のなかに、窓が映った。隣にある小学校の校庭がよく見える。お昼休みなんだろう。子どもたちが縄跳びやサッカーをして遊んでいる。
消毒液と食べ残しの混ざった給食室の独特な匂い、砂と汗と少し鉄の匂いが漂ってきた気がした。
また目が開く。どのくらい寝たのかわからない。もうずっと寝ている。きょうが何日なのか、何曜日なのか、何時なのかもわからない。わかったところで、悲しくなるだけだとわかってから聞かなくなった。お母さんが花瓶を持ってきた。梅の枝振りが美しい。これから咲くのだろう、まだ蕾が多いようだ。
あら、起きたのね——
ゆっくりと窓の外へ視線をやると、同じ年くらいの女の子が、見慣れた看護師さんたちに見送られていた。かすかに、梅の匂いがした。
気がつけば辺りはすっかり暗くなっている。周りのみんなはいつの間にか帰ったようだ。目の前のPCだけが僅かに低い音と熱を発しながら、ポツンと光っている。ここのところ全然寝ていない。流石に家に帰らなければ、女房が心配するだろう。立ち上がり、伸びをしたら腰骨がボキボキと音をたてた。落ち込んだ目、垂れた頬、無駄に元気な髭、くたびれた顔が窓に映った。
もう終電も終わったようで、外を歩く人はまばらだった。カップルが多い。これからは彼らの活動時間だ。
見慣れた顔が見えた気がした。ここは3階だし、もう暗いし、目は疲れているからすぐに気のせいだと思い直した。冷め切ったコーヒーを飲むと、決して良い匂いとはいえない、酸っぱいような、市場のような匂いがした。
ちっ、もっと早く歩けよ。東京駅を彷徨う観光客にイライラする。今から大阪までいかなきゃいけないのに。
小さめのキャリーケースを引きずりながら、最短距離で改札を目指す。
品川から乗ってもいいけど、東京からの方が良い席に座れるからな。交通費は会社から出るし。大阪までは時間がかかるからサンドウィッチでも食べて、資料の確認をしよう。大阪の取引先はお酒好きだからな、また飲みに付き合わされるだろう。できるだけ早めに解散して、今日中に東京に帰りたい。明日の朝には会社で確認したいこともあるし。ふぅ。まだ火曜か。
着たままだったジャケットを脱ぎながら窓の外を見た。永遠に続くと思われる田園風景がひたすら広がっていた。真っ白い雲が、少しずつ形を変えながらついてきていた。ゆったりと、飛行機が進んでいく。たまに反射するCDの光が、瞳の奥に刺さった。昔つかまえたザリガニの泥臭い匂いと、何かが焼けるような香ばしい匂いがどこからか漂ってきた。
やだ、遅刻しちゃう!
約束の時間の15分前にはついていたのに、お金を下ろすのをすっかり忘れていた。平日の昼間なら空いてると思ったのに、スーツを着た人たちが長い時間、機械の前から離れない。こんなに待つと思わなかった。まだそれらしい人たちが私の前に列を作っている。
やっと私の番になった。残高が増えている。そうか、今月の給料日は祝日の月曜にあたるから、きょう振り込まれるのか。なんとなく、得をした気持ちで出口に向かった。通帳を見ながら背中を丸くしている白髪混じりの老人が、大きな窓の外に立っていた。横目で見ながら約束の場所へと急いだ。
耳慣れたアラームの音で目が覚める。四畳半の小さな部屋の隅に布団を畳む。
鼻が冷たい。
顔を洗って歯を磨き、身支度を整える。電気を消して、カーテンを閉めてから扉を開けた。春先の暖かい空気が鼻腔をくすぐり、身体があたたかくなっていくような気がした。