おいしいコーヒー(小説ショート)
コーヒーを飲む。
いや、飲むというとちゃんと味わっているような気もするから、ちがうか。
喫する。これはもっとちがう。まるでコーヒーを楽しんでいるように聞こえる。口に入れる。口に含む。もっと人間らしくない方がいい。飲下する。取り入れる。服する。もっと——
そんなことが考えながら、コーヒーを摂取したとき、向かいに座っていた友人はコーヒーを飲みながら、上目遣いで私を見た。
いや、見た、というより、私の座っている方向にぼんやりと目をやった、と言った方が正しい。友人の目は確かに、間違いなく目なのだが、人間が発するエネルギーだとか、迫力、生命力が全く感じられない。どこを見ているのか、わからない。濁っている。
彼がカップから口を離すと、今度は口が見えた。何かを言ったようだった。
「おいしいね」
そんなことを言った。彼の唇の間に一瞬見えた、粘着質の液体に意識をとられ耳が機能するのに時間がかかった。これはおいしいのか。私にはただの黒い液体にしかみえない。
「ここのお店はさ、コスタリカとイエメン、ブラジルの豆をブレンドしてるらしいよ。ブラジル以外の豆はミディアムローストでさ、余韻を残さない酸味と甘みがすっきりしてておいしいよ。」
「そうなんだ。詳しいね。」
恋人を探すのに、どこの大学出身だとか、どこに勤務しているとか、お家はどこだとか気にするのに似ているな、と思った。お豆様は海のむこうの遠くからはるばるやってきて、焙煎されて、あそこの豆はこうだ、こっちの豆はこうだと評価される。豆にとっては、こうして自分の価値をわかってくれる奴に飲んでもらった方が、本望だろう。
私はわからない。コンビニで100円で売っているコーヒーですら飲まない。スーパーで売っている、600グラム400円程度のコーヒーで充分だ。
5年ほど前、私にもコーヒー好きな時期があった。さまざまな喫茶店へ行き、いろんな豆を買い、フライパンで自家焙煎をした。産地と農場、標高の高さや木を調べて、コーヒーの歴史を辿って東ローマ帝国まで遡った。
おいしいコーヒーを求めて、必死だった。
けれども、ベトナムを旅行していたときのことだ。
ホーチミンからフエに移動するためのバス乗り場を探していたとき、道に迷ってしまった。住居が並ぶ細い道を歩いていると、小さな池のある家があった。池のなかには綺麗な魚が悠々と泳いでいる。魚を見ていると、家の人が出てきて、なにやら言っている。言葉は理解できないけれど、暑いから休んでいけ、って言っているんだと思った。
ご厚意に甘えて日陰に座っていると、冷たくて甘いコーヒーと、バナナを使った正月のお菓子でもてなしてくれた。ただ苦いだけのコーヒーに砂糖をいっぱい入れた甘いコーヒー、これが人生でいちばん、うまかった。食堂を通って、細胞がそれぞれオーガズムを感じている。生きている。どんなに良い産地の良い豆を使って、最大限においしさを表現しようとしても、このときのおいしさに敵うものなんてないと知ってしまった。
それ以降、私にとってコーヒーはただの黒い液体でしかない。味の優劣はあるとわかっている。でもそれは歓喜するようなおいしさではない。学校でもらう成績表のように、どこの豆だからおいしいとか、どういう焙煎をしているから甘いだとか苦いだとか、おいしさは丸とかバツで測れるようなものではないのだ。
だから私は友人を、ひどく羨ましく思った。