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消えゆく戦争遺構

先日のこと、地元の川崎市宮前区と高津区の境界あたりを、例によってぶらぶら歩いていたら、ショッキングな光景を目にした。

「馬絹の大塚(宮崎大塚)」という古墳の西側の路地で、一軒の住宅が建設中だったのだ。このへんはけっこうな新築ブームで、建設工事そのものはめずらしくはないのだが……この場所には、じつはつい最近までこんなものが建っていた。

2020年12月撮影

この、なんの変哲もないボロ屋(失敬)が、消滅していたのだ。

たぶん倉庫か物置に使われていたこの建物の正体が何だったかというと、じつはこれ、旧陸軍の施設跡なのだ。

ご存じの向きも多いだろうが、この宮前区と高津区の境界付近、国道246号線をまたいだこの地区は、かつて軍用地だったのだ。

正確には、1942年から終戦までの3年間、陸軍の東部62部隊(陸軍歩兵第101聯隊)の本部が置かれていた。現在の「宮崎中学校」の場所に連隊本部が置かれ、「虎の門病院分院」あたりを中心に兵舎などの建物が存在していたようだ。

またここの西側、宮前区から横浜市青葉区にかけての広大な範囲には溝ノ口演習場が広がっていた。

もちろんその土地は、終戦後に返還されて軍事施設はなくなったのだが、その痕跡がけっこうそこここに残っていたりする。

このボロ屋(重ね重ね失敬)は、その基地の被服廠の一部だった建物だった。貴重な戦争遺構なのに、それがきれいに消失したのだから、びっくりしたのである。

もっとも、これまでもこれが遺構であることの表示ひとつあったわけでもなく、知ってる人しか知らないことだったから無理もないか。史跡に指定されていたわけでもなさそうだし。

この被服廠と国道246号線をはさんだ南東側には、馬房と呼ばれる建物の一部も残っている。

2020年6月撮影

馬房、つまりは馬小屋。軍馬を飼っていた施設で、往時には南北に細長い平屋建ての馬房が数棟並んでいたという。戦後民間に返還されて民家に転換し、長屋のように数世帯が居住している。わりと最近までそのうち2棟が残っていたそうだが、現在は東側の建物は全部消滅し、残った道路際の1棟も分割されてぶつ切り状態になっているのだが、まだ辛うじて形は残っている。

また、戦争遺構かどうかはハッキリしないが、こんなものも見ることができる。

2019年12月撮影

被服廠跡の西側、「こうしん坂公園」に隣接した駐車場の角に露出している、謎の煉瓦。おそらく背後の駐車場の地下に埋もれている構造物の一部だろうが、その正体はわからない。このあたりにはかつては弾薬庫が設置されていたともいうので、あるいはその一部なのかもしれないが、現在では確かめようもない。

というのも、この連隊本部や演習場の資料がほとんど残っていないからだ。終戦時に陸軍がこうした資料や記録をすべて破棄したからだとか。なので、断片的な証言や記憶をもとに在野の地元研究家らが類推するしかなかったのが現状らしい。

わりと素性がハッキリしているのがこちら。

2020年2月撮影

「川崎市青少年の家」の庭に残されているお化け灯篭

東部62部隊はこの地に転ずるまでは東京の六本木にあり、そこにこの灯篭も置かれていた。連隊とともに転進してきた際に移転したものだそうだが、六本木にあるころには夜な夜な動き出しては盛り場を遊び歩いていたという伝説があった。そのために出歩けないように、移転に当たって足を切られたともいう。ほんとうかどうかは知らないが。この場所には連隊の将校集会所が置かれていたそうだ。

もはやその面影はないが、国道246号線の梶ケ谷交差点から市道・尻手黒川線の馬絹交差点まで大きくカーブして伸びる「長坂」は、連隊移転の際にその敷地を民間が迂回するために軍が新たに設置した道路だし、その馬絹交差点から東名高速道路・川崎インターチェンジまで一直線の尻手黒川線ももともとは軍用道路だったという。

たしかに、連隊本部のあるあたりから伸びる尻手黒川線の途中には、高射砲陣地(宮前平駅北側の八幡坂の上にあったらしい)や探照灯陣地(土橋交差点南側の梵天山〔現在は鷺沼北公園〕山頂)、射撃場(たまプラーザの國學院大學グラウンドあたり)などがあったので、理にかなった話ではある。

私はずっと、尻手黒川線は東名川崎インターの取付道路として建設されたものだと思っていたが、むしろ逆で、この整備された元・軍用道路があったから東名高速のインターを現在地に建設したのかもしれない。

こうした軍用地の境界を示すために設置された軍標(軍用地境界石)も残されている。

2019年12月撮影

よくある境界石よりはだいぶ大きく、御影石で地上に出ている部分は約30センチ、軍用地外側に向かった面に「陸軍」の刻字がされている。

かつてはこのへんに100基ほども残っていたというが、どんどん減っているのが現状だ。ちなみにこの写真のものはJRの梶ケ谷貨物基地から伸びる貨物線のトンネル入口の北側に隣接した坂道の路傍にポツンとある。

2019年11月撮影

これはさらにその東側、マンションの間に設けられた石段に埋もれているもの。すぐ横にはもう1基ある。

2019年11月撮影

私がこの馬絹地区で確認できているのはこの3基だけ。かつてはもっとたくさん残っていたようだが、ほかにはずっと北側の軍用地境界にあったものが移設されてしばられ松のある聖神社境内に置かれているもの、軍事工場のあった溝の口駅付近の兎坂に残る2基を見つけたのみで、ほかには見つけられていない。

このように、まことに残念ながらこの付近の戦争遺構はもはや完全消滅寸前といった状態のようだ。

日本という国は歴史遺構の保存には、基本的に冷たい。有名だったり観光地として経済価値があったりしないものは、どんどん破壊されていくのが実情だ。世界遺産になったりして大喜びしているのは、ごくごく一部。

とくに昭和以降の歴史遺構には、まだまだ保存されるものが少ない。富岡製糸場とか軍艦島などは例外中の例外だ。ましてや戦争遺産、軍事遺構という「負の歴史」に関するものについては、ほとんど保存の声も上がらないようだ。

たかだか80年ほど前のものとはいえ、これも歴史の重要な遺跡。なんでもかんでも保存しろとは言えないが、せめて消滅させる前にきちんと調査、記録しておきたいものだと思いませんかね?

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