うーぱーるーぱー

 中学校の昇降口を入ったところの正面に小さい水槽があった。水槽の中には、うーぱーるーぱーが一匹だけ入っていた。中学校でうーぱーるーぱーを飼うというのは一般的なことなのだろうか? ぼくは他の中学校に行ったことがないから知らない。ともかくそいつはぼくが入学してきた時から、だいたい八ヶ月後、十二月のある日にいなくなるまで、とくにこれといって生徒たちに可愛がられることもなく、壁の油絵やトロフィーと同じような風景の一部として黙々と生きていた。
 なぜある日いなくなったかというと、食べられてしまったからだ。
 食べてしまったのはぼくと同学年の女の子だった。これから彼女の話をしようと思う。


 その日の昼休み、ぼくは第二校舎二階のトイレの一番手前の個室で弁当を食べていた。
 そこは扉の立て付けが悪くて誰もいない時でもいつも閉まっているので、ぼくが長いこと閉じこもっていても気付かれにくい個室なのだ。
 弁当は母親が持たせてくれるいつものやつだ。飾り気のないアルミの二段組。下の段には海苔をのせた白米、上の段には日替わりの冷凍食品と卵焼きとピーマンを炒めたやつがみっしり詰まっている。感謝して食べたことは一度もない。美味しいと思ったことさえ。
 こうして便所の臭いを嗅がないように息を止めて、箸が音を立てないようにしながらねばねばする白米を飲み込もうとしていると、これがぼくの体内に流し込まれようと、目の前の便器の中に流し込まれようと大差ないとしか思えなくなる。そうしたことは一般的に不道徳といわれるらしい。しかし、ぼくがそれを咀嚼し、栄養を吸収し、何も生み出さない午後の時間をただ突っ立って生きるためのエネルギーに変えたところで、コメやブタの死体が何を嬉しがるというのだろう。
 ぼくは食事をすることが苦手だ。

 やっとのことで完食した後も、ぼくは個室から出ることができなかった。トイレの外にたむろしている数人の喋り声が聞こえていたからだ。もうすぐ昼休みも終わりだというのに、全く動く気配がない。何が楽しくていつまでもトイレなどにいるのだ、とぼくは自分を棚にあげて苛々とする。

「てか、午後数学じゃん。ダル」
「あの先公キモくね? なんかニヤニヤしながらこっち見てくんの」
「分かる。あれ犯罪っしょ、顔面が既に死刑」
「ねー技術の課題終わんなかったんだけど」
「マジ? 補習出んの?」
「やば。ここニキビできてる」
「セクハラといえばさー、三組の担任の……」
「あれ? もう鐘鳴んじゃない?」 
 その一言の直後、きーんこーん、と校舎中に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り始めた。慌てる様子もなく、まだお喋りを続けながらどやどやと彼女たちが出て行く足音をぼくは息を潜めて聞いていた。

 五限が数学、ということは、彼女たちはぼくと同じクラスの生徒だろう。声だけでは顔も名前も一致しない。単なるひとかたまりの他人だ。どちらかといえば不快な類の。
 声が完全に聞こえなくなっても、ぼくは身動きすることができなかった。弁当箱を抱えたままトイレから出てくるところを万が一にも見られるわけにはいかない。廊下から完全に人の気配がなくなるまで待つ。
 こういうことをしていると、ぼくはよく自分が平たい魚みたいなものになって、岩陰に隠れて巨大な捕食者をやり過ごしているような気分になる。魚はそうすることを何も恥じたりはしないだろう。だからぼくも恥じない。それは本能だった。食欲よりもずっと強くぼくを支配する本能だった。

 そのうち、五限開始のチャイムも鳴ってしまった。ぼくは完全にトイレから出て行きそびれた。数学の教師は時間に正確で、チャイムが鳴る時にはもう教室にいる。今から急いで戻っても、もう授業は始まっているだろう。静まり返った教室のドアを開けて入っていくだなんて、そんな恐ろしいことはぼくには出来ない。
 ま、いっか、とぼくは思って、ふうっと息を吐きながら扉に背をもたせかけた。もう周りには誰の気配もないので、少しくらい物音を立てても構わない。すがすがしい気分だった。

 十分くらいぼくはそこでぼーっとしていた。便器は和式なので座る場所もなく、立ちっぱなしだ。個室は暗くてじめじめとしており、ゆっくりと体が冷えきっていく。
 もう、外に出てもいいんじゃないか? ぼくはようやくそう思い始めた。授業中なので廊下には誰もいないはずだ。万が一教師などとすれ違っても、ぼくは一見して真面目な見た目をしているから、何か用があって急いでいるふりをすればわざわざ呼び止められることもないだろう。
 一階の多目的スペースの本棚から文庫本を適当に見繕って、もっと日の当たる、人のいなさそうな、腰を下ろせる場所に行って読もう。そうしよう、と心を決めてトイレから出た。

 廊下にはやっぱり誰もいなかった。閉じた教室の中から漏れ聞こえてくる教師の声だけが耳に届いた。ぼくの存在とは無関係に世界が進行している音だった。自分が透明になったような気がしてぼくは心地よかった。
 階段を下り、多目的スペースに向かうには昇降口の前を通らないといけなかった。開けた、明るい空間。誰もいないとは思いつつも、ぼくは早足で横切ろうとした。でも、その足は止まった。

 正面に人がいた。制服。スカート。女子生徒。それだけなら、ぼくはそのまま何食わぬ顔をして通り過ぎていただろう。
 女子生徒は口元に手を当て、やや俯いていた。一瞬、泣いているのかと思った。ボタボタと足元に水が滴り落ちるのが見えた。涙にしては多すぎる。それは彼女の目ではなく、口から、そして口を覆う手から滴っていた。彼女は嗚咽ではない何かを押さえていた。
 彼女の顎と頬はもきゅもきゅと規則正しく運動していた。何か、えもいわれぬ嫌な臭いがぼくの鼻をかすめた。次の瞬間、ごきゅり、と異常に大きな音とともに彼女の喉が動いた。明らかに、何かを呑み込んだのだ。それも相当大きな物を。

 彼女は肩の力を抜き、口から手を離した。そして、ぐるりと首をめぐらして真っ直ぐにぼくのほうを向いた。ぼくがそこで見ていることはとっくに気づかれていたのだ。彼女の口元と手は透明な水でびしょ濡れだった。ブレザーの袖も濡れて色が変わっていた。
 ぼくは逃げ出すこともできず、立ち竦んだまま目を泳がせた。彼女が立っているのが、あの水槽の前だということにその時やっとぼくは気づいた。水槽の中の水は半分くらいに減っていて、中にいたはずのうーぱーるーぱーは影も形もなかった。
 彼女はまばたきもせずにぼくの目をじっと見つめ、それからベロリと舌を出して口のまわりを舐めた。怪物みたいに大きな、尖った舌だった。いや、それは見間違いだっただろうか? その時のぼくはショックのあまり、自分の見たものの真偽を確かめる余裕がなかった。

「おなかが空いちゃってさ」
 思いの外何気ない声音で、彼女はそう言った。クラスメートのお喋りの中に混じっていたとしても何の違和感もないだろう、いたって特徴のない少女の声だった。しかし、その円い二つの目は、一ミリたりとも逸らされることなくぼくの目をじっと見つめ続けていた。
 圧されるようにぼくは少し後ずさった。彼女はぼくに話しかけている。返事をしなきゃ、と焦った。

「う、う、うーぱーるーぱーっておいしいの?」
 カラカラの喉から飛び出したのはそんな言葉だった。彼女は少し首を傾げ、
「うーん。なまぐさい」
と表情を変えることなく言った。
 それじゃやっぱり、今食べていたのはうーぱーるーぱーだったのだ。ぼくは背中がぞくぞくするのを感じた。うーぱーるーぱーなんて、いや、食用のものもあるんだったっけ、とにかく生で食べるようなものじゃないに決まってる。お腹を壊すんじゃないだろうか。

「な、なんでうーぱーるーぱーなんか食べたのさ」
「だから、お腹が空いてたんだってば」
 彼女は大きな口をにやにやと歪め、さっきと同じ言葉を繰り返した。からかわれているんだ。ぼくは顔が熱くなったり、また冷たくなったりした。
 とにかく状況が奇妙すぎる。どうしてぼくのほうがからかわれているんだろう。犯行現場(学校で飼っている生き物を勝手に食べてしまうのは何らかの罪にあたるのではないだろうか。よくは分からないが)を見られたのは彼女のほうなのに。先生に告げ口してやろうか。でも、そういえばぼくのほうだって授業をさぼるという悪事を犯しているのだった。

 次の言葉が継げずに口をぱくぱくするぼくを無遠慮に眺め回し、ふと彼女は一点に視線を止めた。
「お弁当」
 濡れた指を上げて彼女が指したのは、ぼくが左手に提げた弁当箱の袋だった。服の下に隠せる大きさでもないし、見咎められないことを祈りながらぼくはそれをさりげなく身体で隠すようにして持ち運んでいた所だったのだ。
「それ、くれない?」
 彼女はにっこりとして言った。断られることなど微塵も想定していないような態度だった。
「こ、これは空っぽだよ」
 うーぱーるーぱーを一匹丸呑みして、更に他人の弁当まで欲しがるなんて、一体どんな食欲をしているんだ。ぼくは恐れおののきながら、空っぽの弁当箱を何となく後ろ手に隠した。
 彼女は目をぱちぱちとして、無表情に戻った。
「なんで空っぽの弁当箱なんか持ち歩いてるの?」
「だ、だって」
 口ごもりながら、ぼくは自分の頭の中で瞬く間に適当な言い訳がこしらえられていく様をふと冷静になって見つめた。
 どうして誤魔化す必要があるんだろう。相手は今さっき目の前で、便所飯なんかより遥かにとんでもないことをしたおかしいやつだ。

「さっき、トイレで……」
 正直に言おうと思った。するりと一言だけが滑り落ち、つんのめる。彼女は無表情のまま、あの目でぼくを見つめている。ぼくは唾を飲んだ。
「……トイレに中身を捨ててきたところなんだ。ぼく、食事するのが嫌いだから」
 それが限界だった。
 ぼくは、自分がトイレに隠れて弁当を食べていたというようなことを、ひょっとすると他のどんな人間よりも、彼女にだけは知られてはならないのだと直感的に悟った。訳もわからずバクバクと心臓が鳴り始めた。危ない場面を潜り抜けた後のように。

 彼女は理解できないというように目を見開いた。その表情はもうぼくにとって何も恐ろしくはなかった。
「そういうこと、よくするの?」
「うん。いつもだよ」
 気づかれないように呼吸を整えながら、ぼくは半分本当で半分嘘の答えを滑らかに口にする。
 しかし、次に彼女が発した言葉は再びぼくを驚かせた。
「じゃあ明日から、きみのお弁当、私にくれよ。私はいつもお腹が空いてるんだ」
 今度はぼくが目をぱちぱちとする番だった。
 彼女はからかっている風ではなかった。
「第三校舎の端の階段の、二階と三階の間の踊り場で待ち合わせ。昼休みにあそこを通る人なんて誰もいないんだ。私、よく知ってるんだ」
 ひどく真剣な取引を持ちかけるようにそう言ってから、彼女はにっこりと笑った。断られることなど微塵も想定していないような態度だった。


 その日から、ぼくは毎日彼女に自分のお弁当を渡すようになった。実際、ぼく自身にとっても、食べたくない弁当を処理してもらえるのはありがたいことだったのだ。昼休みが始まってすぐ、第三校舎の端の階段の、二階と三階の間の踊り場へ行くと、彼女はいつもぼくより先に来て待っていた。
 彼女の言葉どおり、そこは誰一人も通りがかることのない校舎内の死角だった。それでいて、トイレよりずっと明るく窓から日が差していた。臭くもなかった。
 昼休みの間中、ぼくは彼女の隣で階段に腰掛けて本を読むようになった。それはとても心地の良い過ごし方だということが分かった。昼ご飯を抜くことは全く苦痛ではなかった。

 彼女は毎日代わり映えのしない弁当の中身をいつもおいしそうにぺろりと平らげ、その後は猫のようにぼうっとしたり、本を読むぼくにちょっかいを出したりした。少し話もしたけど、彼女についての情報は殆ど得られなかった。何年何組の所属かとか、どうしてうーぱーるーぱーを生で食べてもお腹を壊さないのかとか、どうしていつもお腹を空かせているのかとか、そういうことはいつまでも分からないままだった。

 それでも、分かることもあった。彼女は雨よりも晴れの日が好きだということ、でも日なたの中にいると少し具合が悪そうに見えること。よく笑う唇の隙間から尖った八重歯が見えること、まるでぼくみたいに孤独だということ。
 それから、一度だけ、階段を下りようとして躓きそうになった彼女を支えるために、手首を掴んだことがある。その時、ぼくはその手首がぼくごときの力でもぽきりと折れそうなほど細いことを知ってびっくりした。彼女はがりがりに痩せていた。服の上から見ただけでは分からなかったけれど。

 理由は分からないけれど、彼女には明らかに生きるための栄養が不足していた。多分、だからぼくの弁当を必要としている。
 そのことを考えると、ぼくの心臓にはぴりぴりと甘い痛みが走った。正体不明のその痛みのおかげで、ぼくは以前よりも学校という場所をあまり苦痛に感じなくなっていった。


 思い返せば、そうやって過ごした日々はほんの二週間足らずのことだったのだ。ぼくにとっては、それまでの八ヶ月余りの中学校生活全てを合わせたよりも、遥かに大きな意味を持った時間だったけれど。
 十二月はぼくのことなどお構いなしに暮れていって、いよいよ明後日から冬休みが始まるという日になった。
 次の日は授業がなく、午前中に終業式があるだけなので、弁当は持ってこない。彼女に弁当を渡せるのは、その日が今年最後だった。

 いつも通りの場所でぼくたちは会い、いつも通りに過ごした。彼女は相も変わらずおもしろいほどの速さで弁当を空にした後、じっと黙って前を見つめていた。何か、言いたいことがあるような風に見えた。ぼくは読みかけていた本を閉じ、待った。遠くで誰かの笑い声がした。ぼくたちとは無関係な世界の方向から。

 やがて彼女は、今までになく躊躇いがちに、囁くように言った。
「私、死にたくないよ」
「そうなんだ」
 ぼくは答えた。答えながら、膝を抱える彼女の手首を横目でちらりと見た。血管と筋と骨の浮き出た、もう見るからに血色の悪い手首だった。
「きみのお弁当、おいしかったけど……でもやっぱり、生きてる血と肉じゃないと、おなかが空いてたまらないんだ」
「だから、うーぱーるーぱーを食べたの?」
 ぼくはそっと言った。彼女はうんと頷いた。今にも涙をこぼしそうなほど俯いていた。そんな表情はちっとも似合わなかった。
「もう死んじゃうと思うんだ。冬休みになったら……きみのお弁当が食べられなくなったら、もう本当に耐えられない」
「……」

 彼女が全身で訴える、飢えという感情、それはぼくが知らないものだった。
 空腹という感覚が分からない。今まで何の役に立つこともなかったその欠落は、彼女のために誂えられたものだったのではないかと、その時ぼくは気がついた。ぼくがぼくに与えられた食事を口にせず、代わりに飢えた彼女の胃を満たせるように。

 いいや、それだけじゃない。今までぼくが過ごしてきた、水底で息を潜めるような生活、誰にも顧みられることのない無意義な時間、いつまでも傷つくことができない、やわらかい幼児のようなぼくという人間。
 全部、彼女のために用意されたものだったのだとすれば。
 その証拠に、次の瞬間、ぼくは躊躇いもせずに言った。
「ぼくのことを食べるといいよ」

 彼女は顔をあげてぼくを見た。驚いたような円い目。ぼくはそんなにおかしなことを言ったろうか。死にたくないんなら、生き物は生き物を食べなくちゃならないだろう。そして、君にはそれができるんだろう。
「うーぱーるーぱーよりは、きっと人間のほうが栄養があるよ。ぼくで試してみなよ」
「でも……」
 その時、きーんこーん、と昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。おどおどと立ち上がる彼女の手首にぼくは軽く触れて、チャイムの音にかき消されないように、ちょっと顔を近づけて言った。
「明日、終業式が終わったら、第二校舎二階のトイレの一番手前の個室に来て。あそこなら、誰にも気づかれないから。ゆっくり食事ができるから。待ってるからね」

 返事を待たずにぼくは走り出した。階段を駆け下り、廊下に出て、早足で教室へ向かう生徒たちの群れに合流する頃には、熱くなった顔は幾分冷めていた。


 そして、彼女は約束通りに来た。今、狭い個室の中で、息がかかるほどの距離で、向かい合っている。
「本当にいいの?」
 薄暗い中でも、彼女が青ざめているのがよく分かった。終業式を終えて、校舎内の生徒はもう残らず帰ってしまったので、あたりはとても静かで、ぼくたちの息する音だけが聞こえた。
「怖くないの?」
「ぜんぜん」
 ぼくは強く言った。強く言えば、それは本当のことだ。ぼくは何にも怖くない。心はない。お腹を空かせない。だから食べてしまってもいい存在なんだ。そう伝えたかった。

 最初に会った時、ぼくはトイレに隠れて弁当を食べていたことを言えずに嘘をついた。たぶん、ぼくは彼女と友達になってしまいたくなかったんだ。同じ心を持った生き物だと思われたくなかったんだね。だってそうでないと、彼女の空腹も、ぼくの無意味も癒やすことができないから。

 きゅるきゅるきゅる、と彼女のお腹が鳴る音が聞こえた。かわいいな、と思った瞬間、首筋を物凄い力で挟まれたような感じがした。熱い血がシャワーのように顔と肩にかかった。彼女の髪がぼくの鼻に触れた。なまぐさい臭いがした。ぼくの両肩を押さえつける彼女の指は、あの痩せた腕のどこにそんな力が残っていたのだろうというほど深々と肉に食い込んでいた。ぶちぶちと喉笛が噛み千切れ、便所の汚いタイル床が赤黒く染まっていく。咀嚼音に混じって、洟をすするような音が聞こえた気がした。

 何も気に病むことはないのに。君は捕食者で、ぼくは被食者だ。好きなだけ食い破って、貪って、奪って、啜ってくれればいい。君を認めない他の人間にも同じようにすればいい。そうして、できればずっと大人になるまで生き延びてくれればいい。
 そのためにぼくの命を使ってくれたなら、ぼくはきっと嬉しいと思うから。

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