青の剣の継承者#1
ムルの谷は、ハリの町を経由して王国の西部へ向かう隊商にとって、古くから難所として知られてきた。
深い谷底の道は、馬車が向きを変える余裕もないほど狭く、場所と時間帯によっては昼間でも夜のような暗闇の中に沈む。
道の両側にそそり立つ斜面は険しいが、慣れた者なら駆け降りて奇襲をかけるに容易い。窪みや灌木の茂みなど、身を隠す場所もあちこちにある。
すなわち、盗賊にとっては絶好の餌場だった。
「……んで、格好を見るに、こいつがその盗賊団ってのの親玉だろうな」
肺が腐りそうなほどの悪臭が、靄に混じって立ち込める谷底。
くたびれたブーツの爪先で、イルハは足元に転がる黒い塊をひっくり返した。
ごろり、と首なしの死体が仰向けになり、群がっていた蝿が一斉に舞い上がる。
死体は炎に押し付けられたように焼け焦げて、衣服も皮も黒く炭化していたが、荒く切り裂かれた腹部の傷口から生焼けの肉と内臓のピンク色が覗いている。
周囲に折り重なっている夥しい数の似たような死体と比べて、この首なしは腕や腰回りに身につけた貴金属の装飾品が多かった。
「黒焦げ野郎には勿体ねえお飾りだ。俺が貰っておいてやろう」
死体の帯留めを飾る宝石をナイフで剥ぎ取りながら、イルハは露悪的に片頬を歪めた。
それから、周囲を調べている二人の仲間を振り返る。
「ようお前ら、臨時収入だ! クソ仕事を掴まされたと思ってたが、こりゃもしかするとツキが回ってきたかもな!」
「全くそうは思いませんね」
すげなく即答し、立ち上がったのは背の低い黒髪の男。眉間に深々と皺を寄せ、狭い道のさらに奥まで続いている惨状を指し示す。
「死体は盗賊どもだけじゃありません。奴らが襲撃中だったと思われる商人とその護衛士、御者やら人夫。数えられるだけ数えてみましたが、ハリで聞いた隊商の規模とそう違わない人数です。つまり……全滅と言っていい。これだけの人数がむざむざと、逃げる間もなく殺られている。たった一匹の、獣によって」
「ただの獣じゃない。マナの獣さ。そのくらいは分かってたことじゃねえか、ニズ?」
イルハは楽天的に肩をすくめ、汚れた金髪の頭をボリボリと掻いた。
「大体、こんな一本道じゃ満足に動けないのも当然だろ。人間同士でごたついてるとこを後ろから一網打尽。効率のいい狩りだぜ」
ニズと呼ばれた男は表情を動かさず、最後の一人に水を向ける。
「メイル、あなたの見立ては。僕たちに勝算はあると思いますか」
ぎしり、と道の先で大きな軋み音が響き、道を塞いでいた馬車の残骸が斜めに持ち上がった。その向こうから姿を現したのは、色褪せた皮鎧に身を包み、大剣を背負った長身の女である。
逞しいとはいえ常人から逸脱した体格とも見えぬその女は、車輪つきの荷台を軽々と持ち上げて道の端に寄せると、冷静な表情で道の先を指し示した。
「あちらに足跡が残っていた。確かにかなり大きいが、マナの獣というものは歪だからな。これだけで全身像が推測できるものでもない……が」
そこまで言って僅かに眉をひそめ、真っ直ぐにイルハと視線を合わせる。
「イルハ、お前にも分かっているはずだ。町で聞いた噂。今目の前にある被害。そしてマナの痕跡。どれを取って考えても、私らのような弱小が敵う相手じゃあない。じきに王都から精鋭が派遣されて来るだろう。結果的に、我々は彼らが到着するまでの時間稼ぎに充てられたというわけだ」
「……」
イルハはメイルから視線を逸らし、掌の中の死体臭い宝石を弄ぶ。
「どうします。トンズラこきますか? 一度受けた討伐依頼をほっぽり出したとなれば、いよいよ金輪際この仕事では食っていけなくなるでしょうけど」
ニズは溜め息をつき、天を仰いだ。
日が傾き始めているのか、谷間から細く見える空は褪せたような青色をしている。
中天に浮かぶ巨大な赤い星――〈プワンガヌシュヤの心臓〉だけが、見慣れた異質な輝きを力強く放っていた。
あれこそ全てのマナの源。
三年前、世界中の空を劈いた〈叫び〉と共に、遥か古の時代に失われたはずの力が、あの星から地上へと降り注いだ。
あの日以降発生した数々の異変によって、今もなお地上は混乱と混沌の中にある。
打ち捨てられ、あるいは骨董として眠っていた〈遺物〉の起動。
魔法使いの覚醒。
――そして、獣の発生。
「マナの痕跡は、北に向かってやがる」
低い呟きを聞いて、ニズは視線を戻した。
いつの間にか、イルハは笑みを消していた。
死体を踏み越えて歩き始め、細い道の先が枝分かれしている場所を指差す。
「そしてハリで聞いた情報によれば、ここから北へ少し登った先に村がひとつあったはずだ。急げば日が落ちる前に着く距離だな」
ニズは、腕を組んで立っているメイルをちらりと見た。
メイルのほうがイルハとの付き合いは長い。読み取りにくいイルハの真意を読むのは、彼女に任せている。
メイルは目を伏せ、呆れたように薄く笑った。
「『生き残りがいるかもしれない。まだ襲われる前かもしれない。とにかく行って助けるべき』か。ハッ、大した聖人サマだ」
「もちろん俺は聖人さ。死体漁りが副業のな」
イルハは皮肉気ににやりと笑い、宝石を握り込んだ拳をコートのポケットに突っ込む。
「獣と鉢合わせたらどうするつもりだ」
「その時はお前らが何とかするだろ。……着いてきてくれるよな?」
メイルとニズは顔を見合せ、そして頷く。
理不尽な仕事。
不条理の獣。
世界を包む混沌に巻き込まれ、明日をも知れぬ人生。
しかし今、このひねくれた青年に従って人助けに赴くこと、それはなかなか悪くない。
八方塞がれた状況の末の、愚かな思考停止にすぎないかもしれないが、彼らにはそう思えた。
「無論だ。目を離した隙に、お前まで獣になられては敵わん」
「いざとなったら、僕の〈遺物〉が役に立つかもしれませんし。保証はできませんが」
「ヘッヘ……」
イルハはボリボリと頭を掻きむしる。
それからその右手を軽く目の前で握り、開いた。
汚い手袋に包まれた五指の先に、仄かに灯る青白いマナの光。
自身の魔法を確かめるように、その光を握りしめると、イルハは拳を突き上げて陽気に仲間たちへ呼び掛けた。
「行くぞお前ら、クソ仕事続行だ! 先のことはクヨクヨ考えなくてイイぜ。ツキは無いかもしれないが、俺のポケットには宝石が入ってるからな!」
(2-1に続く)