益子の西明寺 ~四季と喜怒哀楽を見つめて~
紅葉と夕陽がベストタイミングでした。
栃木県にある益子(ましこ)の街は
「益子焼」で有名ですけれども、
あるものが多いことでも有名です。
…それは「中世建築」です。
つまり、鎌倉時代・室町時代あたりの
古建築、昔の建築が今なお多く残っている。
場所的には、県庁所在地の宇都宮市の南東。
隣の茨城県の水戸や笠間から見れば、北西。
山間部のひなびた街です。
戦災や開発の波から残りやすかった。
その益子の中でも特に有名なのが、
「西明寺」というお寺の建築。
本記事では、このお寺の歴史を
紐解いてみよう、と思います。
「益子の西明寺」で検索していただくと、
あるキーワードとともに出てくることが
多いことに気付かれるかもしれません。
それは「笑い閻魔(えんま)」です。
赤ら顔で豪快に笑う閻魔様。
不思議に思いませんか?
閻魔様と言えば極楽か地獄かをジャッジする
厳正な裁判官のような存在、ですよね。
ふつう、厳しい顔をしているのでは?
嘘をつくと舌を抜かれるのでは?
…そもそも「閻魔」とは、
仏教における地獄、冥界の主です。
死者の生前の罪を裁く存在とも言われます。
サンスクリット語ではヤマラージャ。
ヤマは「山」ではなく「双子」という意味。
ラージャは「王様」の意味ですね。
インドの聖典『リグ・ヴェーダ』では
ヤマとヤミーという
双子の会話形式で話が進む。
ヤマとは人類の始祖だったのです。
始祖なので、人として最初の死者になります。
初めて死者が歩む道をたどっていき、
やがて死者の国の王となる…。
このヤマの存在が仏教に取り入れられ、
エンマ、閻魔天になるのでした。
ただ、日本の仏教において閻魔天は
「地蔵菩薩」の化身とされています。
お地蔵様は、基本、笑っていますよね?
ゆえに閻魔様が笑っていてもおかしくはない。
益子の西明寺に鎮座している
「笑い閻魔像」の左右には、
善童子と悪童子が控えています。
善童子は生前の「善行」を報告。
悪童子は生前の「悪行」を報告。
彼らの報告によって閻魔様が
死者をジャッジするというわけです。
笑っているのは死者のメンタルを救うためか、
それとも嘘を見抜いたためか…。
この「笑い閻魔」は西明寺のシンボル。
御朱印状にも、手書きで笑い閻魔が描かれます。
近年では「街おこし」のキャラとして、
益子駅に笑い閻魔の絵が描かれている、とか…。
この閻魔様たちの像が安置されている
「閻魔堂」以外にも、三重塔があったり、
阿吽の仁王像がいる楼門があったりと、
とにかく「中世建築」に囲まれた
独特の雰囲気を持つお寺、なのでした。
では、このお寺の沿革を紹介しましょう。
奈良時代に開山されました。
奈良の大仏建立に力を尽くした
「行基」がひらいた、とされる。
8世紀のことです。
益子を治めていた「益子氏」は、
本姓を「紀氏」と言います。
きのし。歌人で名高い「紀貫之」と同じ。
宇都宮を治めた「宇都宮氏」の家臣となり、
益子の地を中心に勢力を保っていきます。
この益子氏の本拠地が
『西明寺城』だと言われている。
高館山(たかだてやま)の中腹に
建てられているので高館城とも言われた。
つまり、奈良時代にひらかれたお寺に、
京都から移り住んだ紀貫之の一族が
本拠地として「お城」にしたんです。
さて、鎌倉時代を経て南北朝時代になると、
宇都宮氏は北朝方だったので、
益子氏も北朝方として参戦します。
はるばる京都にまで出兵して戦った。
西明寺城は空城、留守になっている。
そこに目を付けたのが、
関東地方における南朝方の指導者、
北畠親房という男でした。
南の筑波山のふもと、小田城にいた彼は、
京都に出向いて留守になっている
益子氏の領地を狙っていきます。
西明寺城、あえなく陥落!
南朝方に占拠されてしまうんですね。
南朝方の最北端の拠点になった。
険しい山の中のため、防御力が高い。
しばしば北朝方の攻撃を撃退します。
しかし、1352年、ついに落城。
益子氏が返り咲いて失地を回復する…。
このように南北朝の争いに
もろに巻き込まれた西明寺城なのですが、
1392年「イザクニまとめる足利義満」の
南北朝合一によって
次第に平和を取り戻していったのです。
…と思いきや、戦国時代には
再び不穏な政情になる。
1532年、宇都宮氏の家臣だった益子氏は、
他の家来とのいさかいを起こし、
宇都宮氏から離反してしまいます。
隣の笠間周辺の「笠間氏」や
西の結城周辺の「結城氏」を巻き込み、
縄張り争い、互いに争い合っていく。
三重塔は1538年の建立ですから、
この頃に建てられた。
周りとの戦いを有利に運ぶためにも、
頑張って建てたのでしょうか?
宇都宮氏&笠間氏 VS 益子氏&結城氏!
1589年、益子氏はかつての主家である
宇都宮氏の攻撃を受け、敗北します。
西明寺城は没収されてしまい、
この際に城が廃城にされたそうです。
…しかし、ここにやってきたのが
1590年に北条氏の小田原城を落とし、
天下統一を成し遂げた大物、豊臣秀吉。
1597年、秀吉は宇都宮氏を改易する。
名門宇都宮氏も、また姿を消すことに…。
と、このように西明寺城は
南北朝の争い、戦国時代を通して
取った取られたの激しい戦いの舞台になった
重要なお寺・お城なのでした。
江戸時代になると、この寺の
本堂が改修され、閻魔堂も建立される。
それ以来、この由緒あるお寺は
「笑い閻魔のお寺」として
広く庶民に慕われることになっています。
最後にまとめます。
本記事では「西明寺(城)」の歴史を
かいつまんで書いてみました。
戦国時代には戦い合った益子と笠間も、
いまでは「焼き物の町」として仲良くなり、
『かさましこ』と並び称されています。
益子の焼物街のほうから見れば、
南東の方向、高館山の中腹にあるお寺…。
現在の住職さんは田中貞雅という女性で、
元国立がんセンター研究員の
田中雅博さんの妻です。麻酔科医も兼任。
夫の雅博さんは西明寺の跡取りとして生まれ、
医師でありながら寺の住職も務めていた方。
ゆえに、境内に診療所や介護施設を建てた。
仏教では「生・老・病・死」という
苦しみが人にはあると説きます。
田中さんは医師兼僧侶として、
「老・病・死」を見つめ、考えてきた方。
(NHKのドキュメンタリーでは
『ありのままの最後』として
がんに侵された自らの最後の450日を
映像に収め、遺した人でもあります)
笑い閻魔。中世建築。戦いの舞台。
そして多くの人の人生の終わりを見つめて、
自らの一生の終わりも記録した住職…。
益子の西明寺は、自然豊かな山の中で、
鮮やかな四季、喜怒哀楽をあらわしながら
今日も静かにたたずんでいるのでした。
※西明寺のある山は、別名、獨鈷山。
「獨鈷處」(どっこいしょ)という名前の
休憩所がお寺の近くに設けられています↓
※笑い閻魔の御朱印とお寺の紹介↓
※西明寺のホームページはこちら↓
※武家の名門『宇都宮氏』と
栃木県の変遷についてはこちら↓
※NHKアーカイブスから田中雅博さんの
『ありのままの最期
末期がんの“看取り医師”死までの450日』↓
合わせてぜひどうぞ!