自己内省・自己開示の地歴比較文化的考察
古い日本家屋には個室がない、と言われます。
囲炉裏を囲んで、みんなが一緒に過ごす。
プライベートな空間は、基本、ありません。
もちろん「家長」ともなれば
専用の個室があるかもしれませんが、
子どものうちは雑魚寝で、みんな一緒。
その環境の中では「個」が育つより、
「家」「集団の中の一人」という意識が
育つのは、容易く想像できます。
本記事では、自己内省、自己開示について
地歴や文化の面から考察していきます。
横溝正史さんの『金田一耕助シリーズ』の
第一作目として、
『本陣殺人事件』という作品があります。
「少年」じゃなくて、元祖のジッチャンのほう。
日本家屋での密室殺人!
本来、推理小説の発祥地、英国の家屋と異なり
「日本家屋は密室殺人は不向きだ」と
言われておりました。
鍵がかかるような「密室」が
なかなかないから。
そこに挑戦したのが、横溝正史さん。
「雪が降り積もった中で
外にある『離れ』(新婚の夫婦の家)」
を作中でつくり、そこで殺人事件が起き、
その積もった雪に犯人の逃げた跡がない、
つまり密室!という舞台設定がなされました。
そのように頑張って工夫しないと、
古い日本家屋ではなかなか
「密室」や「個室」が生まれないのです。
一方で、ヨーロッパなどの家屋では
昔から「個室」が、普通にあります。
日本からイギリスに渡った
明治時代の文豪、夏目漱石は、
このイギリスと日本の住環境の違いに
なかなか慣れなかったと言います。
留学を途中で切り上げて帰国したほど…。
そこまで環境が違った。
開国したばかりの当時の日本と、
偉大なる大英帝国、当時のイギリスでは。
そのヨーロッパ風の家屋で育った人間は、
日本家屋で育った人間とは異なり、
「家」「集団の中の一人」という意識よりも
「個」が育つのではないか?
夏目漱石は帰国後、この「個」について
おおいに悩み、小説という形で、
それを表現していくことになります。
家屋だけではありません。
キリスト教の文化
(特にカトリック系や正教会系)においては、
「告解」という行為がよく行われます。
宗派によって違いはありますが、
「ゆるしの秘跡」「痛悔機密」
などと呼ばれるそうです。
これは、聖職者などに向かって
自分の「罪」「秘密」を懺悔して、
神からの許しや和解を得る儀礼。
…つまりは、自分のことを内省し、
それを「言語化」「見せる化」する文化がある。
このような文化内においては、
「自分」というものがどういう存在なのか、
自然と意識できるのでは?
「自分」とは言い得て妙で、
「自己」と「他人」とを「分ける」ものを
意識すること、なのですから。
こういうことが(全くないとは言えませんが)
日本の文化では、そこまではなかった。
何しろ「八百万の神」がいる
多神教、多様的な文化を持つ国。
いや、現在では、必ずしもそうではない。
昔は、「家制度」の中で家長が絶対的な
権限を持っていたり、
テレビが居間だけで「チャンネル争い」が
勃発していたかもしれませんが、
現在の家屋は「個室」がある。
核家族化・男女平等の傾向の中で
「家制度」も徐々に薄れている。
各自それぞれ、スマホで動画を見る。
また、SNSの発達により、
自分とは違う「他人」に触れることが増えて、
自己内省や自己開示の機会も増えてきている。
そう、文化的にも日本では
徐々に「個」が育ちつつある環境に
変わってきているのです。
ただし。
あくまで、近年、最近の話。
地域によっても大きな違いがあります。
時間的な「歴史」と空間的な「地理」により、
その環境には、差が大きい。
例えば、大都会東京においては、
古い日本家屋のほうが逆に珍重され、
タワマン、ワンルームがたくさん…。
基本「個室」から成っている。
逆に、地方に行けば、
「古い日本家屋」が現役として
活躍していたりしています。
「個室」がある家ばかり、とは言えない。
都会では単身者、核家族が多い。
地方では三世代同居も珍しくない。
時間的な経緯も、違いますよね。
江戸の昔から、東京は
「単身赴任の武士」中心の街。
各藩から江戸詰めの人たちが
出仕してきていた。
したがって、人の出入りが「流動」的で、
一期一会という機会も多かった。
ゆえに「自己紹介」の機会も多かった。
「他者」と「交流」する機会も多い。
一方で、各藩の江戸期は基本「固定」。
家柄重視。人間関係も変わらない。
いわゆる「ムラ社会」。
毎日顔を合わせる。一期一会じゃない。
別に「自己を言語化」しなくてもいい。
「暗黙の了解」で通る。
…それが徐々に変わっていったのが
明治の文明開化期であり、
戦後の高度経済成長期なのでしょうけど、
江戸~東京はずっと
人の出入りが激しい街ですし、
地方では戦後~現在でもムラ社会が
続いていることが多い。
地歴的に違いがあるんです。
日本社会全体において、ようやく
「個」が育ちつつある環境が
できてきた、という段階。
大昔から「個室」があり、
「自己内省、自己開示」の文化を育んだ
ヨーロッパとは、全く違う。
どちらが良い悪いではありません。
しかし、
その経緯を、地歴を、無視してしまうのは
いかがなものかと私は思います。
リンクトインなどのSNSを
活用している読者の皆様の中には、
日本以外の国で活躍されている方も
多いと思いますが、
そのあたりの感覚の違い、
環境の違いは、
肌で感じられるところではないか。
私のように、基本ずっと
日本で過ごしてきた人には、
そのあたりのことが
肌で感じにくい…。
だからこそせめて机上の知識として、
「日本社会で個が育つ環境が整ったのは最近、
地域差も大きい」ということを
知っておくべきだ、とも思うのです。
その環境や文化を生かした形で
新しいサービスや商品を
生み出していくべきだ、とも。
(余談ですが、ブラジルには
どんなに小さな村にも必ず
サッカー場と教会があるそうです。
だから「個」を活用できる
サッカーができるんだな…と思ったりします)
最後にまとめます。
以上のような状況ですので、
「自己内省」「自己開示」については
地域差が大きい。
もちろん、家族にもよるし
学校の方針や学習にもよるでしょう。
SNSに親しんでいるかによっても違う。
千差万別です。
自分にとっては当たり前のことでも、
他人には寝耳に水!
そんな社会に、私たちは住んでいる。
「日本社会」と大きく主語を取ってしまうと
その地域間の差に気づけない。
機会があれば、他の地域に行き、
比較しながら、感じつつ学びつつ、
日本と海外、国際的な視点と、
日本の中での差、国内的な視点を、
同時に持ちながら考えていきたいところですね。
読者の皆様の環境はいかがでしょうか?
地理的な環境は、歴史的な経緯は?
一期一会ですか? 毎日変わらずですか?