江戸時代の「藩」は今の都道府県とは
ちょっと違っておりまして。
何しろ「封建時代」のシステムですから
「将軍様(幕府)」から
「版籍」(版図と戸籍、つまり土地と民)を
「与えられて」治めているわけです。
その代わり、将軍や幕府に忠誠を誓う。
『御恩と奉公』ってやつですね。
ましてや、江戸時代の統制下ですから
「お取り潰し」や「国替え」もあります。
けっこう、ごちゃっとしています。
「天領」(幕府の直轄地)もある。
ですので、都道府県のように
「ここからここまでは〇〇県」
「ここで偉い首長はこの人」というように
かちっと決まっているわけではない。
しかし、そんな複雑な藩の中にあっても
特に変わった藩があった。
「本拠地が二つある」藩があったんです。
いや、もちろん「飛び地」として
本拠地とは違う場所に版籍を持っている
という藩はたくさんありました。
しかし、本記事で扱う藩は、
そのどちらが本拠地とも決めがたい。
ゆえに、呼び名が二つある藩。
「谷田部藩/茂木藩」のお話です。
やたべはん/もてぎはん。
「谷田部」とは、現在の茨城県つくば市の街。
「茂木」とは、栃木県芳賀郡茂木町の街。
…けっこう離れています。
筑波山の近くに、谷田部がある。
栃木県の南東部の山の中に、茂木がある。
(焼き物で有名な益子町の東隣、
水戸と宇都宮の中間地点くらいです)
何でまた、こんな離れた場所を
同時に治める藩ができたのか?
これには、深いわけがあります。
藩祖、つまり初代のお殿様は
「細川興元」(ほそかわ おきもと)。
有名な細川藤孝(幽斎)の次男です。
細川家と言えば、室町幕府に仕えて、
後に織田信長、豊臣秀吉、
関ヶ原の戦いでは徳川家について
後に熊本の大大名になった名家の一つ。
(現代でも、総理になった
細川護熙さんはこの家の出身ですね)
藤孝の長男、お兄さんである忠興は
この熊本藩(肥後藩)のお殿様です。
五十四万国!
対して次男の興元は
一万石で「茂木藩」に封じられた。
…実はですね、この兄弟、
仲が悪かった、と言われている。
忠興はどちらかというと
「文化人」の顔を持っています。
茶道の千利休の弟子のひとりであり、
「利休七哲」としても数えられる。
しかし興元は「武闘派」。
戦い大好き。血気盛ん。
性格が違う。ウマが合わない。
真実は定かでないですが一説によれば、
最初、興元は関ケ原の戦いの武功で
十万石を与えられることが内定していた。
これを長男の忠興が止めたそうなんですよ。
「弟は戦は上手かもしれませんが
政治は得意ではありません。
だから、一万石で十分でございます」的な
ことを言った、とも言われる。
それで今の栃木県の茂木町、
一万石に封じられた。
興元の心中、いかばかりか…!
しかし、合戦の手柄次第で
土地を増やすことができる時代です。
ちょうど、合戦が起きました。
豊臣氏を滅ぼす「大坂の陣」です。
興元、がんばりました。
ここでがんばらなければ一万石のまま!
自らの手で敵を討ち、武功を上げる。
江戸幕府は、茂木から離れた場所、
常陸国の谷田部のあたり、六千二百石を
加増することにしたのです。
(先述した忠興の弟への加増への固辞は
この時ではないか、とも言われています。
真相は藪の中、ただ、この影響なのか
熊本の細川本家とは
不仲、疎遠になっています)
つまり、藩の総版図は「一万六千二百石」。
しかし、茂木と谷田部は、離れている。
…さて、ここで問題です。
興元は、どちらを本拠地にしたでしょうか?
ヒントは、江戸時代。
江戸時代と言えば、参勤交代の制度。
(正確には三代将軍家光の頃にできましたが
家康や秀忠の頃も江戸に行くことは多かった)
…そう、参勤交代には
かなりの費用がかかりますよね。
大名と家臣がわざわざ江戸、今の東京まで
行かなければいけないわけですから、
できるだけ近いほうがいい。
そのほうが、費用が安くて済む。
茂木は、山の中です。不便です。
谷田部は、平野です。便利です。
江戸への距離も、半分で済む。
(今でも、つくば市からは東京までは
つくばエクスプレスで秋葉原まで
直通で行けますもんね!)
はい、興元は山の中の茂木から
平野の谷田部に本拠地を移します。
そのため「谷田部藩」とよく呼ばれる。
ただし、茂木をないがしろにしたわけでなく
陣屋を置いて大事に治めて、
時には藩主が茂木に行ったりもしていたので
「茂木藩」と呼ばれることにもなる。
後に興元は、二代将軍秀忠の
「御伽衆」(側近の話し相手)になります。
江戸出張には、江戸に近い谷田部のほうが、
やはり便利だ、と思ったのでしょう。
こうして「谷田部藩/茂木藩」は
二つの本拠地を持ったまま、
幕末まで存続することになるのです。
…ただ、江戸時代の藩にありがちですが、
藩の財政はかなり苦しいものだった。
幕府は、藩に色々な仕事を押し付けて
藩の財政が苦しむように仕向けますからね。
それに加えて、江戸の藩邸が火事で燃えたり、
飢饉が起きたり凶作や一揆が起きたりして、
この谷田部藩/茂木藩、財政がひどい。
一万三千人ほどいた人口も、
何と半分の六千七百人ほどに減ってしまい、
田んぼも半分ほど荒地になった…。
「これはいかん、なんとかせねば」と、
第七代藩主の興徳(おきのり)、動きます。
有名な改革者の指示を仰いで
藩政改革を志す。
その人の名こそ「二宮尊徳(金次郎)」。
そう、昔の学校に「本を読みながら
たきぎを背負った像」が置かれた人。
偉い人なんです。
彼は「農村復興政策」の第一人者!
彼と彼の弟子は、全国色んなところで
財政再建の手助けをしていた。
今で言えば、地方創生コンサルタントか。
彼と、実際に改革に当たった藩医、
中村勧農衛の尽力もあってか、
完全に回復とはいかないまでも、
藩の財政は(一時)持ち直します。
…というところで、明治時代になります。
大政奉還、江戸幕府がなくなる。
幕府がなくなれば、別に
江戸に行く必要もなくなりますよね。
最後の藩主、九代の細川興貫(おきつら)は
1870年に、藩庁を茂木に戻しました。
1871年には、茂木藩知事に任じられる。
しかしですね、1871年と言えば
「藩とイワナイ 県とする」の廃藩置県。
茂木藩はすぐに「茂木県」となってしまい、
後に「栃木県」の一部となっていきます。
一方の谷田部は「新治県」の一部となり、
後に「茨城県」の一部となっていく…。
こうして、谷田部藩/茂木藩の
歴史は終わりました。
今では「茨城県つくば市の谷田部」と
「栃木県の茂木」に、密接な関係が
あったことは、あまり知られていません。
「熊本県(肥後藩)」とのつながりも。
最後にまとめます。
本記事では「二つの本拠地を持つ」
珍しい藩の話を書きました。
※こちらの記事もご参考までhttps://www.city.tsukuba.lg.jp/material/files/group/123/yatabe_2.pdf
さて、読者の皆様の街では、
どんな「藩」の歴史があるでしょうか?
「都道府県・市町村の歴史」に上書きされた
「藩」の歴史を調べてみると、
意外なつながり、事実が出てくるものです。
ぜひ、興味のある方は調べてみて下さい!
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